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Canary Ensis



 その日は憎らしいほどに、天気のいい一日だった。
11月3日の文化の日は、西蘭女子大学の文化祭。
雲ひとつない真っ青に澄み渡った空が、どこまでも高く続いている。
わたしは校門の前のバス停のベンチに、ひとりで座っていた。
目の前をたくさんの人が通る。
みんな、なんにも悩みがないように笑い、楽しそう。
風船がちっちゃな女の子の手を離れて、高い空に舞い上がる。
翳(かげ)りひとつない青空の彼方に、吸い込まれていく。

「さつきちゃん。待った?」
ポカンと風船のゆくえを見つめていたわたしの肩を叩いて、声をかける男の人。川島君だ。
「ううん。わたしも今来たばかり」
わたしは風船から川島君に視線を移したものの、その瞳は見れず、ぎこちなく微笑んで答えた。

先週のダブルショック以来、川島君とはなんとなく、ギクシャクしてしまっている。
小説コンクールのことも、みっこのモデルのことも、頭では理解していて、納得もしているんだけど、わたしの心の奥のどこかに、まだ感情的なシコリが残っているみたい。
日曜日にせっかく川島君からかかってきた電話にも、居留守を使っちゃったし、そのあとのデートの誘いも、文化祭の準備や学校の課題を口実に、なんとなく断っていた。
今日の文化祭も迷ったんだけど、川島君が『ぜひ』って強く言うんで、渋々いっしょに行くことにした。

ううん。

川島君が嫌いになったわけじゃない。
いろいろあったけど、今でも彼のことは、心から好き。
だけど、なにかが邪魔をして、それを素直に表せなくなっちゃってる。
もしかしてわたしは、川島君を拒むことで、彼から強く必要とされるのを、待ち望んでいるのかもしれない。

川島祐二に小説コンクールで負けたことと、モデルとはいえ、わたしより森田美湖が選ばれたということ。
先週のこのふたつの事件で、わたしの創作者として、女としてのプライドは、深く傷つけられてしまった。
『わたしはもう、川島君には必要じゃないのかも』とさえ、思うくらい。

わたしはみっこみたいな美人でもないし、スタイルもよくない。
小説を書くのは好きだし、かなり上手いとうぬぼれていたけど、所詮川島君ほどの才能もなく、『小説家を夢見る』ただの平凡な女子大生。
そんなとりえのないわたしでも、川島君がほんとに好きでいてくれるのなら、追いかけて捕まえてほしい。
わたしをもっと強く、求めてほしい。
川島君から逃げるのは、そんな願望が無意識の底にあるからかもしれない。

「今日はぜひ、さつきちゃんといっしょに来たかったんだ。去年はひとりでさつきちゃんを探しまわって、ロクに催しも見れなかったから、そのリベンジにね」
セピア色に色づいたポプラの樹の並ぶ、ゆるやかな上り坂になっている校門までの道を、ふたりで肩を並べて歩き、川島君は弾んだ声でわたしに話しかける。
なのにわたしは、ふさぎ込んだ浮かない口調で、ひとことだけあやまった。
「…去年は、ごめん」
「いや。もう別にそういう意味で言ったんじゃないんだけど」
「…」
「さつきちゃん?」
「…」
「どうしたんだい? さつきちゃん」
「なにが?」
「最近おかしいよ」
「別に…」
「なんだか、楽しくなさそうだ」
「別に、そんなこと…」
「電話をかけても留守だし、かけ直してもくれないし、やっとつながっても黙んまりで、あまり話さないし、デートも断られる…」
そこまで言って川島君は顔を曇らせ、口を閉ざした。
「…さつきちゃん?」
彼はわたしを見つめ、真剣な顔になり、躊躇(ためら)うように訊く。

「もしかしてぼくと… 別れたい?」
「えっ?」
どうしていきなり、そんなことを訊くの?
そんなこと、考えたこともない。
わたしは強く、かぶりを振った。
川島君は不安そうな表情のまま、わたしの顔をのぞきこむ。
「ほんとに? でも、さつきちゃん。ぼくのこと避けてるだろ? 最近いろいろあったから、もうぼくのこと、嫌いになったのかなと思って…」
「そんなことない」
「ほんと?」
わたしは返事の代わりにうなずき、うつむいたまま、訊ねる。
「川島君こそ、わたしとは別れたいんじゃない?」
「そんなこと、あるわけないよ」
「わたしのこと、まだ好き?」
「『まだ』じゃない。ずっと好きだよ」
「ほんとに?」
「いつか海で約束したじゃないか。来年も再来年も、さつきちゃんの誕生日には花束を贈るって。ずっとずっと、さつきちゃんのことは、好きだよ」
「…ん」
そう言ってうなずいた瞬間、涙がこぼれそうになる。
川島君はそんなわたしの手を、ぎゅっと握りしめて、明るく言った。
「大丈夫だよ。なにも心配いらないって。今日は天気もいいし、思いっきり楽しもうな。今までのモヤモヤを全部吹き飛ばすくらいに、な!」
「うん」

わたしはやっぱり、この人が好き。
ディズニーランドのことや森田美湖のことなど、いろいろ不安で、訊いてみたいことはたくさんあるけど、それは今は置いといて、彼の言うとおり、今日こそは楽しい一日を、川島君といっしょに過ごしたい。

 

 たこ焼きに焼き鳥、フライドポテト。
色とりどりのノボリの立った、賑やかな模擬店から漂ってくる、美味しそうな香り。
『ラムちゃん』やメイドさんの衣装をまとって、黄色い声を張り上げている、コスプレをした呼び込みの可愛い女の子たち。
そんなお店で川島君は、いろんな食べ物を買ってくれる。
道ばたの大道芸にはいっしょに拍手を送り、わたしが行きたいと言った展示やイベントにも、快くつきあってくれて、いっしょに楽しんでくれる。
言ったとおり、今日の文化祭で過ごす時間が楽しくなるよう、川島君はいろいろ気を遣ってくれた。
そうやって尽くされると、わたしのわだかまりも少しずつ解けていき、川島君に向ける笑顔も、自然なものになっていくのを感じる。

よかった。
今日こうして、川島君とデートできて。

「よう、おふたりさん! 元気そうじゃないか」
「お邪魔してるわよ。川島君」

模擬店の店先でふたりでクリームソーダを飲んでいるとき、そう言ってわたしたちに声をかけてきた人たちがいた。
振り向くとそこには、ディレクターの藤村さんとカメラマンの星川先生が、にこやかな表情で立っている。川島君は驚いて訊いた。
「星川先生。藤村さん。もう来られたんですか?」
「早い便で着いたんだよ。ファッションショーの時間には、まだだいぶあるな」
「えっ? みっこのファッションショーを見に来られたんですか?」
わたしも驚いて藤村さんに尋ねる。
「そうだよ。みっこちゃんから招待券をもらったんだよ。彼女がステージに立つのなんて、ほんとに久し振りだからね。しかも注目の若手デザイナーのブランドって話じゃないか。今からショーが楽しみだよ」
「開演は6時からだけど、3時半からリハーサルがあるんです。もうすぐ楽屋に入るはずだから、藤村さんも行きませんか?」
「そうか。さつきちゃんもショーの手伝いするんだね。まあ、今はばたばたしているだろうから、終わったあとにでも、ゆっくり挨拶するよ」
「ショーは一般も撮影OKなんでしょ? わたしは観客席からこっそり、撮らせてもらうわ」
そう言いながら星川先生は、肩からかけたカメラバッグを、ポンと叩いた。
「先生。カメラ一式持って来られたんですね。そんなデカい一眼レフに長玉くっつけてちゃ、『こっそり』じゃないですよ」
川島君が星川先生を冷やかすと、先生はにこにこ微笑みながら応える。
「ショーもだけど、今日は川島君の返事も聞きたかったのよ」
「え? わざわざ、恐れ入ります」
星川先生の視線に少し照れるように、川島君はかしこまって言った。いったいなんの『返事』なの?
藤村さんはそんなふたりの事情を知っているらしく、鷹揚に笑いながら言う。
「ははは。先生はすっかり彼のこと、気に入ってるな」
「ええ。わたし、才能のある人って、大好きだから」
星川先生も、やわらかく微笑みながら、そう応えた。

いいなぁ…
わたしもだれかに、そんな風に言われてみたい。
星川先生はチラッとわたしを一瞥して言う。
「ま。それはあとでいいわ。またファッションショーのときにでも会いましょ」
「じゃ、おふたりさん。またあとで」
意味ありげにそう言い残して、ふたりは雑踏のなかに紛れていった。

「『返事』って、なに?」
ふたりの姿が見えなくなって、わたしは訝しげに川島君に尋ねる。川島君は、ふたりが消えた先を見つめたまま、答えた。
「ん? ああ… ちょっとね」
「ちょっと?」
「…あとで話すよ」

悪い予感がする。
わたしは問いつめるように訊いた。
「まさか… 川島君、『星川先生の所に就職する』とか、言うんじゃないでしょうね?」
「…そんなこと、じゃないよ」
「ほんとに?」
「ああ」
「じゃあ、いったいなんなの?」
「だから。あとで言うから」
しつこく食い下がるわたしに、一瞬川島君はイヤそうな表情を見せ、それでも気を取り直すように微笑んで言った。
「そんなことより、今日はお祭りを楽しもうよ」
「川島君、なんにも言ってくれないのね」
やっかみを込めながら、わたしは辛い口調で彼に当たった。

川島君が星川先生に見込まれて、藤村さんたちと親しくしているのを見るのは、わたしにはあまり気持ちのいいものじゃない。
さっき、星川先生はわたしのことを、まるで部外者を見るように、一瞥した。
わたしだけのけ者にされて、邪魔者扱いされて、みんなで勝手に話しを進められるのって、会話の輪に入れない僻みかもしれないけど、実に不安で、不愉快。
こうしてせっかく彼といて、少しは楽しい気分になりかけても、すぐにちょっとしたことで、気持ちがすさんでしまう。

「…ぼくだって、なんでもかんでも、さつきちゃんに話すってわけじゃないよ」

気まずい沈黙のあと、川島君はわたしの言葉に、低い声色で応えた。

えっ?
意外な彼の反応だった。

川島祐二は、まるで知らない誰かを見るような目で、わたしのことを見つめている。
わたしを拒絶するかのような、冷たい瞳。
川島君は、自分のテリトリーが侵されたと感じると、いきなり冷ややかな態度に出る。
そうやってわたしたちは今まで、何度もケンカをした。
彼は語気を荒立てて怒り出すことは、滅多にない。
ただ、静かに、冷たく、他人を… わたしを拒む。
そしてわたしは、このときの彼が、いちばん怖い。
自分の存在を、全否定か、無視されているように、感じるから。
わたしは背筋に寒気が走るのを覚えた。

「…ごめん」
条件反射のように、わたしはあやまった。
「いいよ。今日はケンカとかしたくないし、楽しくやろうな」
そう言いながらも、川島君の目は、笑っていない。
わたしがあんまりにも、自分勝手な感情をぶつけすぎたから、怒らせてしまったのかも…

「あっ。ちょうどよかった。さつき〜!」
そのときみっこが、人ごみをかわしながら、手を振って、小走りにこちらにやってくるのが見えた。
みっこは息を弾ませてわたしの側に来る。
「あ。川島君といっしょだったんだ」
「こんにちは、みっこ」
冷ややかな視線から手のひらを返したように、川島君は親しげな笑顔をみっこに向けて、挨拶を返した。わたしへの態度とずいぶん違って感じるのは、ただの先入観?
「こんにちは川島君。いきなりだけど、さつきを借りてもいい?」
「え? …いいけど」
彼の返事を確かめて、みっこは言う。
「ショーの最終リハの時間がちょっと早まったらしいの。もうすぐはじまるから、いっしょに行かない?」
「えっ? う、うん…」
わたしは戸惑った。
川島君とこういう状態で別れるのは、なんだか中途半端。
「どうしたの? さつき」
わたしがグズグズしているのを見て、みっこはちょっと不審そうに尋ねる。説明するかのように、川島君が口を挟んでくる。

「さつきちゃん、今ちょっと、ご機嫌ななめなんだよ」
「え? どうして? けんかでもしてるの?」
「うん、ちょっと… ね。いろいろあって」
川島君はそう言って肩をすくめてみせ、みっこに目配せする。
そのとき、わたしは見逃さなかった。
みっこが、その『いろいろ』がなにか知っているらしく、どう切り返そうか一瞬迷うように、視線が泳いだのを。

なに? そのふたりの態度。
まるでみっこと川島君が、わたしにないしょで、なにか謀りあってるみたい。
それに『今ちょっと、ご機嫌ななめ』って川島君の、まるで腫れ物を触るような、その言い方。

「別に、ご機嫌ななめとかじゃないわよ!」
わたしはイライラして、思わず声の調子を高めた。
今、川島祐二と森田美湖がわたしの目の前にいて、話しをしているのを見るのは、すごくイヤ。
わたしが知らない、東京や長崎でのふたりを妄想しちゃって、生理的な嫌悪感を感じてしまう。

なんとかしたい。
なんとかみんなの仲が壊れないように…
わたしが壊さないようにしなきゃいけない。
そんな気持ちはあるんだけど、どうしていいかわからない。

「いいわよみっこ。リハーサル行きましょ。さ!」
ふたりがいっしょにいる所を見なければ、少しは気が鎮まるかもしれない。
そう思って、わたしはみっこの腕を引っ張り、この場を離れようとした。
「さつきちゃん!」
川島君がわたしを呼び止める。
「川島君。わたしもうリハーサル行くから」
「じゃあ、ショーのあと、ロビーで待ってるからな。いい? さつきちゃん?!」
背中に川島君の声を受けながら、それを無視して、わたしはみっこを急かし、足早にアリーナへ向かった。

「さつき。ちょっと待って」
グラウンドを抜けて、キャンパスの裏の森の麓まで来たところで、みっこは足を止めた。

「ね。リハーサルまでは、まだ少し時間があるわ。あたし、さつきといっしょに、ちょっと寄りたいところがあるの」
そう言って、彼女はわたしを見つめて微笑み、ブラウスの袖を、くいっと引っ張る。
「え? 寄りたいところ?」
「こっちよ」
みっこは行く先を指さし、キャンパスの裏の丘へ上がる森の小径に入っていった。いったいどこへ行くつもりなんだろ?

 キャンパス全体が遠くまで見渡せる、小高い丘へ続く小径を、みっこは歩いていく。
頂上が近づくにつれて、カーニバルのざわめきも次第に遠くなり、風景画のようにゆったりと、わたしたちの足元に広がっていった。
さっきまでの喧噪の中にいるより、こうして離れて遠くから眺めている方が、お祭りも客観的に見ることができる。
頂上近くの大きなもみの木までたどり着くと、みっこはその根元に腰を降ろした。
「さつきも座らない?」
そう言ってみっこは、自分の隣の草むらに、目をやる。
「ここは…」
「去年の学園祭の夜、ここからグラウンドのかがり火を見ながら、さつきといろんな話ししたわよね。懐かしいな〜」
「ここがみっこの、寄りたかったところ?」
わたしの問いに、眼下のカーニバルを見つめながら、みっこはうなずいた。

そう、ここは去年の文化祭の夜、みっこと恋について、いろいろ語りあったところ。
そして…
川島君が告白してくれて、ふたりがつきあうようになった場所。
わたしのいちばんの、思い出の場所。

「今だから言うけどあたしね。さつきのことが、すっごく羨ましかったの」
「え?」
「あの頃…」
みっこはそう言って、去年の様々なできごとを思い出すように、じっと瞳を閉じて、かすかに微笑む。しばらくそうして、おもむろに目を開き、わたしにニッコリ微笑んだ。
「去年の今頃って、よく、さつきの恋話を聞かせてもらって、相談に乗ったりしてたわよね」
「うん…」
「あの頃はまだ、川島君との恋の行方なんてわかんなかったけど、人を好きになって、生き生き輝いているさつきが、ほんとに羨ましかった」
「…みっこ」
「あたし、さつきには、いろいろけしかけるようなこと言ったでしょ。だから、さつきが川島君とつきあえるようになって、なんだかほっとしたのよ」
「…うん」
「こんなこと言うのも変かもしれないけど、川島君と長崎に行ったときね、彼はほんとに『紳士』だったわ」
「紳士?」
みっこは真顔で、わたしを見つめる。
わたしをこんな、思い出の場所に連れてきて、今いちばん気にしている件を持ち出すなんて…
彼女はいったい、なにを言いたいんだろう?
その言葉の意味を知りたくて、わたしもみっこを探るように見つめた。

「よくいるのよ。下心のあるカメラマンって」
「え?」
「モデル仲間とか、撮影会モデルさんから時々聞く話なんだけど、『作品性』とか『芸術性』とかにかこつけて、意味もなくモデルを脱がせたがったり、『ポーズ指導』とか言って、スケベ心丸出しで触ってきたり、撮影のあとのアフターを期待して、食事とかドライブに誘ってきたりするカメラマン。
そういうのって、けっこう多いみたい」
「そ、そうなの?」
「『いい作品撮るためにお互いが理解できるよう、セックスしなきゃ』なんて露骨に言われた、って話も聞いたことあるし」
「うっそぉ〜!」
「カメラなんてナンパの小道具。写真を撮るより、女の子を釣るアイテムになってるカメラマンって、いるのよね〜。なんだか、がっかり」
「『綺麗に撮ってやるから』、なんて言って口説くのもわかるけど… プロの世界でもそうなの?」
「まあ、ね。似たようなものかな。
撮影のときは、たいていクライアントやエージェントの人も観てるから、そんなに露骨な態度とられることはまずないけど、モデルなんてただの『商品』とか『素材』で、自分は芸術作品を生み出してるつもりの、アーティスト気取りのカメラマンは、よくいるわね。
そんな『上から目線』で撮影されちゃ、例えお仕事でも、こっちも気分が萎えるわ」
「やっぱり、そんなものなのね」
「でも川島君は違ったの」
「え?」
「あたしのこと、いっしょに作品を創り上げていくパートナーとして。でも、あくまで『モデルとカメラマン』として。『自分の恋人の親友』として。理想的な接し方をしてくれた」
「そ… そう」
「川島君って、なんだか安心できるのよね」
「安心?」
「クルマのなかとかでふたりきりになっても、不安を感じないの」
「ふ〜ん…」
「いろいろ聞いたわよ」
「えっ? なにを?」
「さつきのこと。
川島君、嬉しそうに話すのよ」
「ほっ、ほんとに? なんの話ししたの?」
「さつきの小説の話とか、文学の話とか、恋愛観とか。今までさつきとしかそんな話はしなかったから、川島君の口から聞くのは視点がちょっと違ってて、とっても新鮮だったわ」
「川島君、どんなこと言ってたの?」
「たくさん話しすぎて、ひとことじゃ言えないけど…
ただ、さつきは川島君から、ほんとに大事に思われてるんだって、つくづく感じちゃったかな。なんだか妬けちゃた」
そう言って、みっこはクスッと笑いながら、続ける。

「ぶっちゃけ、最初に誘われたとき、かなり悩んだのよ」
「悩んだ? なにを?」
「川島君はさつきの彼氏だし、あたしは、文哉さんのことが好きでしょ。こういう言い方って失礼かもしれないけど、『変なことになったら困るな』って、最初に誘われたとき、思ってたの。でも、全然そんな心配なかったわ」
「…」
「あなたたちって、『離れていても、お互いを思いあってるんだな』って実感できたのが、川島君と長崎に行ったときの、あたしのいちばんの収穫だったかもね」
「…」
「ふふ。それだけ言いたくて、こんなところにきちゃった。さ。リハがはじまるから、もう行きましょ!」

 みっこはそう言って素早く立ち上がると、パンパンとスカートについた草切れを払った。だけどわたしは、いろんな思いが交錯して胸が熱くなって、なかなか動きだせない。

『仲直りしたら?』
とか言うような押しつけがましいことを、直接言わないだけに、みっこがわたしと川島君のことを、ほんとに気にかけてくれているんだと、心から感じる。
そして、わたしたちが上手くいくことを、心から望んでくれている。
なんだか恥ずかしい。
そんなみっこを、ずっと疑っていて。

『あたしが好きなのは… 文哉さん』
って先週の夜、みっこから告白されても、心のどこかで、『みっこは嘘をついているんじゃないか?』とか、『ほんとは川島君が好きなのを、隠してるんじゃないか』って、疑ったりもしていたけど、それはわたしの思い違いだった。

『相手の女(ひと)を裏切ることになる。それがいちばん悲しい』
だなんて、藤村さんの奥さんのことを、ボカした言い方するもんだから、てっきりわたしは、自分のことを遠回しに言われているんだと、勘ぐっていた。
でも、そうじゃないんだ。

「みっこ。ごめんね… ありがとう」
丘の小径を先に下りていくみっこに、わたしは急ぎ足で追いつき、背中から声をかけた。
彼女は少し歩をゆるめたものの、立ち止まろうとはせず、
「…いいの」
と、わたしの顔も見ずに、ようやく聞きとれるくらいのか細い声で、応えた。
「みっこ… どうしたの?」
「ん? 別に… なんでもないわよ」
彼女は振り向きもせず、丘を下る。その背中は気のせいか、なんだか淋しげ。
わたしは気になって、みっこの隣に並ぶと、彼女の顔をのぞきこんだ。
「みっこ?」
彼女はチラッとわたしを見返し、繕うように微笑む。
「あたしには、『モデル』っていう、大好きなお仕事があるから。それで幸せなのよ」
そう言ったみっこは、『さ、早く』とわたしを促し、アリーナへ向かった。

…そうか。
みっこは自分の恋の辛さをまぎらせるのに、精一杯なんだな。
そう言えばあの夜も、みっこは言っていた。
『もう会うまい、って心に決めるんだけど、それでも会えない苦しさの方が辛くて、他のなにでもその気持ちは埋められない』
って。

あの夜、わたしの作ったケーキを食べながら、ポロポロと涙をこぼした彼女だった。
今日のみっこは、そんなことなどまるでなかったかのようだけど、今でも笑顔の彼女の心のなかには、『埋められない』気持ちが、くすぶっているに違いない。
そんな報われない恋をしているみっこに、わたしと川島君のことが、羨ましく映るのも、当然のこと。
それなのにわたしは、ささいなことで川島君に当たったりして、なんて心が狭いんだろ。

そう。
ささいなことよね。
きっと…

川島君はわたしのことを愛してくれて、とっても大事に思ってくれているんだから、ふたりにとって重要な問題なら、いつかはキチンと話してくれるわよね。
わたしは川島君が話してくれるのを、待っていればいいのよね。
そう考えれば、少しは気持ちを切り替えられるかもしれない。
みっこには感謝しなくちゃ。

 

「みっこ!」
ファッションショーの会場になっているアリーナに入ろうとしたわたしたちに、そう声をかけてきた人がいた。
振り向くと、こちらに歩いてくる背の高い男の人がいた。
あっ、この人はみっこの元恋人。藍沢直樹さんだ。
仕立てのいいスーツを着こなし、藍沢氏はみっこに微笑みながら、手を挙げて挨拶した。
「久し振りだね。ちょうどよかった。今、楽屋に行こうとしていたんだよ。あ、弥生さんもいっしょなんですね。こんにちは」
「こ、こんにちは」
「あら。直樹さん。お久し振り」
みっこはそう挨拶して、にこやかに微笑み返す。その表情は、去年の『Moulin Rouge』で見せたような、藍沢氏に対するもやもやした感情など微塵も感じられず、明るくて晴れやかだった。
彼女はもう、藍沢氏のことは、完全に吹っ切れたんだろうな。

「君が大学のファッションショーに出るって聞いてね。はい、これお祝い」
「ありがとう! 直樹さん」
差し出された真紅の薔薇の花束を両手でかかえ、みっこは嬉しそうに顔をほころばせる。
「CMにもいろいろ出ているね。モデル、頑張ってるみたいだね」
「ええ。今は忙しくって、毎週東京と福岡を飛んで回ってるわ」
「そうか。大変そうだね。でも、君がモデルに復帰してくれて、ぼくは嬉しいよ」
「直樹さんの方は、お仕事とか、どう?」
「ああ。夏から本社に戻っててね。今日は君のショーを見に、東京から来たんだよ」
「栄転?」
「まあ、東京に転属願いを出してたから、それがOKされたってとこかな。もう福岡にいる意味もないから」
藍沢氏はそう言って、意味深に微笑む。
そうか。
藍沢氏はみっこを追いかけて、わざわざ会社に転勤願いを出して、福岡に来たのよね。
そんな彼の遠回しのアピールも、みっこはすんなり受け流した。
「そうね。直樹さんも、東京の方が知り合いや友だちがたくさんいるし、行きつけのお店もあるしね。馴染みのない福岡で、あたしの誕生日にディスコで憂さ晴らしなんて、もうしなくてすむわね」
「はは。相変わらず口が悪いな、君は」
「それは直樹さん仕込みよ」
「あははは。なんか安心したよ。いつものみっこで」
「ふふ。直樹さんも、お仕事頑張って、早くいい人見つけてね… って。もういるんでしょうね。直樹さんモテるから」
「まあ、その辺は、ご想像にお任せするよ」
「そんなこと言ってると、あたし、すごい妄想しちゃうわよ」
「ははは。なんだか怖いな。みっこの方は、どうなんだい?」
「あたし? 今は仕事が恋人よ」
「ほんとうかい?」
「ふふ。じゃあ、『恋人』が待ってるから、あたしそろそろ行くわね。お花、ありがとう」
「ああ。ステージ、楽しみにしてるよ」
「ちゃんと見ててね。あたしと別れたこと、後悔させてあげるから」

憎まれ口を叩きながら、みっこは楽屋のドアを開けて入っていく。
わたしは藍沢氏に軽く頭を下げ、みっこのあとに続こうとしたが、彼にどうしても言いたいことがあって、藍沢氏を振り向いた。

今考えると、このタイミングでみっこの元恋人と再会できたのは、必然のようにも、運命のいたずらのようにも思える。
去年のみっこの誕生日。藍沢氏からは運命論みたいな、彼の恋愛観を聞かされた。
まだつきあいはじめたばかりの川島君とわたしだったけど、そのときは、そんな彼の考えには納得いかなかった。
だけど今。
川島君とひととおりの経験をして、藍沢氏の言う『ターニング・ポイント』を通過して、川島君とつきあうことは、運命なんかじゃなく、永遠でもなく、お互いが寄り添おうとする、強い気持ちが必要なんだと、気づかされた。
恋人との別れなんて、すぐそこにある危機なんだと実感した今、わたしは、彼が言いたかったことが、やっと少し、わかった気がするから。

だけど、わたしは運命に屈したくはない。
藍沢氏とみっこのような失敗は、繰り返したくない。

「藍沢さん」
「なんです? 弥生さん」
「わたし、光から陰に変わって、まっさかさまに坂を転げ落ちていく恋愛でも、きっと食い止めてみせます」

 

 

 西蘭女子大学園祭のメインイベントのひとつ、『1991 Seiran Women's University Fashion Show』は、2時間足らずのイベントだが、それに向けてみんなのパワーが注ぎ込まれている。
それはまるで、打ち上げ花火。
華々しい一瞬のために、たくさんの手間と人と時間をかけて、いろんな仕掛けを作り上げていく。
わたしも半年以上も前から、このイベントのお手伝いをしているけど、ひとつのショーに、これだけの手間ひまがかかるんだと知り、それをやり遂げようとするみんなの情熱に、ただ感嘆してしまう。
わたしなんて、たいした仕事をしていないけど、服を作るチームのみんな、ステージに立つモデルさん、それを支える照明さんや音響さん、MCさんをはじめとする、たくさんのスタッフさんに支えられて、ショーはできあがっているのだ。
だれが欠けても、ショーの成功はない。
なのでどうあっても、このイベントは成功させたい。

 ファッションショーは5時半開場6時開演で、最後の通し稽古は3時半からの予定だったけど、今になって構成が一部変わったとかで、30分ほど繰り上げてリハーサルをすることになった。
 今までのリハーサルは、衣装が完成してなくてモデルが普段着のままだったり、メイクもしていなかったり、照明や舞台のいろんな効果もなかったりしたけど、この本番直前のリハーサルは、照明やMCをはじめ、衣装もメイクも本番通りで、ノンストップで進めていくドレスリハーサル。
当然楽屋裏は、幕間の着替えやヘアチェンジなんかで、大わらわになってくる。
わたしたちは本番さながらの緊張感で、最後のリハーサルに臨んだ。

 ドレスリハーサルを終えたあとの楽屋は、それぞれのチームが固まって、開演までの短い時間を思い思いに過ごしている。
オープニングのダンスの練習に余念のないモデルさんや、緊張で表情を固くして、控え室の隅でうずくまってブツブツつぶやいている人。かと思えば、舞台前の腹ごしらえに、屋台で買った焼きそばなんかを食べているチームもいた。

「結局衣装が全部完成しなかったグループが出てね。
その部分の台本書き換えて、演出を削ったり他で埋めたりしたから、その確認のために、リハを早めたんだって。
でも、無念だろうな〜、そのグループ。ショーに出品できないのって」
わたしが手伝っている『Misty Pink』のデザイナーの小池さんは、衣装の最終チェックをしながら、同情するように、今回のリハーサルの変更理由を説明してくれた。
鏡台の前に座ってメイクを直していたみっこは、申し訳なさそうに、小池さんにあやまる。
「すみません。あたしのせいで、去年は小池さんに、そんな無念を味わわせてしまって」
「あっ。ごめん、みっこちゃん。別に責めてるわけじゃないから」
小池さんはそう言って、みっこに明るく微笑みかけたけど、ひと息おいて、続けた。
「まあ… 実を言うとね。そのときはやっぱり悔しかったわ。でも、去年のことはわたしにとって、『カリスマ』なんて回りからよいしょされて、思い上がっていた自分を戒める、いい経験だったと思うの。
それに、あれから一年で、新しいアイディアも湧いてきて、それを形にする技術も身につけて、わたしのスキルも上がったわ。
このファションショーは、西蘭のミスコン替わりでもあるから、出場者は在学中に1回しかモデルをできないでしょ。だから、よりいい形で、こうやってみっこちゃんをモデルに迎えられて、逆に去年断ってもらってよかったとさえ思ってるのよ」
小池さんはそう言って、みっこに微笑みかける。その隣で、真っ赤に目を腫らせて髪もボロボロにし、一心不乱にドレスの細部を縫っていたミキちゃんが、嬉しそうに手を上げた。
「小池さん、終わりました〜っ!」
「わぁ! ありがとミキちゃん。ここの刺繍だけはもう間に合わないかと思ってたけど、ミキちゃんの頑張りで助かったわ。もう、完璧ね!」
そう言ってドレスをチェックした小池さんは、思い出したようにあたりを見渡し、ポツリと言う。
「そういえば、おなか、すいたわね。みんなお昼も食べてないし… なにか食べ物ないかな? だれか模擬店でお菓子でも買ってこない?」
「あっ。わたし、シフォンケーキ作ってきましたよ。どうぞ」
バッグから財布を取り出そうとした小池さんに、わたしは今朝作った紅茶のシフォンケーキを差し出した。今までの経験から、修羅場のあとはみんなおなかがすいてるって、予想してたんだ。
「やったぁ。さつきちゃんの手作りケーキ! 本番前に元気が出るわ」
小池さんは嬉しそうに、わたしが差し出したシフォンケーキに手を伸ばした。
「生クリームも用意してるんで、よかったらいっしょに食べて下さい」
そう言いながらわたしは、タッパーに詰めた生クリームをバッグから取り出す。
「さつきちゃん、用意万端ね」
楽屋に遊びに来ていたナオミが、いつの間にかわたしたちのチームの輪に入ってきていて、さっそくタッパーのふたを開けて、生クリームをシフォンケーキに盛りつけていた。
「じゃあ、わたしは紅茶でも買ってきますね」
作業を終えたばかりのミキちゃんが気を利かせて、足元をフラフラさせながらも、近くの自販機から『午後の紅茶』を買ってきてくれる。
本番前だというのに、ささやかなティータイムがはじまった。

「ん〜。おいしい〜!」
ケーキを頬張った小池さんは、嬉しそうに口許をほころばせた。
それを見ながら、みっこは言う。
「でしょ。さつきはお菓子づくりの天才なんですよ。こないだあたし、さつきの手作りのケーキ食べて、思わず泣いちゃいました。あんまり美味しくて」
「みっこちゃんも大袈裟ね〜。でもそれ、わかる。ありがとう、さつきちゃん」
「いえ。わたしこのくらいしか、できることないですから」
そう言ってみっこを見る。ケーキを口に運びながらわたしを見たみっこは、ニッコリとうなずいた。
やっぱりみっこって、すごい。
あの時のみっこはすごく辛かっただろうに、それをすぐにこうやって冗談にして、笑い飛ばすことができる。
わたしなんて、いつまでもいじいじ考え込んでばかり。
なんだか羨ましいな。

「森田さ〜ん。面会よ」
そのとき楽屋の入口から、みっこを呼ぶスタッフの声がした。
みっこは席を立って楽屋を出て行ったが、両手一杯の真っ白な薔薇とかすみ草の花束を抱えて、すぐに戻ってきた。

「わぁ! すごい。きれい!」
「どうしたのみっこ? 面会って、だれだったの?」
彼女は薔薇の花束に顔を埋(うず)め、香りをかぐように瞳を閉じて言った。
「お祝いだって。上村君から」
「上村君?! あのときの?」
「そう。去年、学園祭の夜に、あたしをフォークダンスに誘ってきた高校生」
そうだった。
去年の学園祭の夜。みっこにフォークダンスを申し込みにきた男の子。
みっこがナンパされるところは何回か見たけど、彼女がはじめて誘いを受けた男の子だったから、印象に残っている。
みっこの口から上村君の話しを聞くことはあまりなかったけど、今でも繋がってたんだ。

「そう言えばナオミ、カツくんとはどうなったの?」
花束を抱えたたまま、みっこはナオミに訊く。
『カツくん』って上村君の友だちで、ナオミがその日の夜にエッチした男の子だったわね。ナオミからはすごい話を、去年の学園祭のあとに聞いたっけ。
「カツくん? ああ。カツくんかぁ。いろいろ大変だったのよぉ〜」
「大変?」
「半年くらいは、なんとなくつきあっていたのよぉ。セフレっぽかったけど」
「セフレっ?!」
「高校生のセフレかぁ。ナオミもパワーもらえそうですね」
ナオミの大胆発言に驚くわたしの隣で、ミキちゃんはケーキを食べながら、なんでもないって顔で言った。ナオミのこういう性格には、長いこと友達やってる彼女はもう、慣れっこなんだろな〜。
「上村君からも、ナオミのことは聞いてたわよ。なんか、すごい話が多くって、びっくりしちゃった」
「やっぱり、若いっていいよね〜。もう、『どこででも何回でもやれる』って感じぃ」
「まだ高校生だもんね」
そんな…
みっこもあたりまえのように応えないでよ。
『どこででも何回でもやれる』ってとこに、突っ込んでよ。

ナオミは嬉しそうに続けた。
「『三井グリーンランド』の大きな観覧車のなかででも、エッチしたことあるのよ。もう眺めが最高で、よかったなぁ〜」
「え〜? ナオミ、人に見られたらどうするの?」
思わずわたしが突っ込んでも、ナオミはまったく動じない。
「なに言ってんのさつきちゃん。『人に見られるかもしれない』っていう、スリルがいいんじゃない。他にもいろんなとこでやったなぁ〜。真っ昼間の公園とかデパートの屋上とかエレベーターのなかとか。走ってる電車のなかでやったときは、もうちょっとで見つかる所だったわ。ううん。見られてたかも」
「ちょっとナオミ。ショーの前にそんなウズウズする話、しないでよ。ステージに立てなくなっちゃうじゃない」
「あははは。ごめんみこちゃん。相変わらず男日照り?」
「もうっ。いいのあたしは。さつきと違うんだから」
「えっ。みっこ、なんでわたしに話を振るわけ?」
「さつきちゃんも、カメラマン志望の彼氏とラブラブだってね。いいわねぇ〜」
「そんな… ナオミはモテるからいいじゃない」
「ダメよぉ。あたしに言い寄ってくる男って、おっぱい星人ばっかり」
「とか言いつつ、ナオミは胸元を強調した服が好きですよね」
「だってぇ〜。自分の魅力はフルに発揮したいしぃ」
「まあまあ。それはいいから」
そう言ってナオミの脱線エロトークを遮り、みっこは話を元に戻す。

「それで? カツくんとはどう大変だったの?」
「それなのよぉ。あたしもモデルのお仕事忙しくなってきたから、『もう会えない』って言ったのよぉ。そしたら泣かれてね〜。『別れたくない』ってダダこねられてぇ〜。
なぁんか… 高校生ってまだまだ子供よねぇ。まぁ、なんとかフェードアウトできたからいいけどぉ」
ナオミの話を聞いて、みっこがため息をつく。
「はぁ… ナオミのそのムダにでかい胸は、犯罪モノよね〜。あなたモデル事務所でも、いろいろ噂になってるでしょ?」
「え〜? だってモデルの男の人って、みんなカッコいいんだもん。しかたないじゃん」
「ん〜… あなたのプライベートには、首突っ込みたくはないんだけど。まあ… お仕事に差し支えない程度に、ね」
「みこちゃんも言ってたじゃない。『適度なエッチは美容にいい』って。あたしはみこセンセイのアドバイスに従ってるだけですよぉ〜」
「あなたの場合、『適度』っていうよりは、『過度』なんじゃない? 過度なエッチは、からだを壊す元よ」
「ナオミ、いいな〜。モデルさんとつきあってるんだ」
ミキちゃんが興味津々な顔で、みっことナオミの会話に、口を挟んできた。
「え〜? あたしも期待してたんだけど、そうでもないよぉ。ナルシストで口先だけの男ばっかりだし。ミキちゃんの彼氏の方が、よっぽどいいかなぁ」
「ミキちゃんの彼氏って、去年からの?」
わたしは彼女に聞いた。地味で奥手でまじめで、おとなしそうなミキちゃんだけど、こう見えて(ごめん)も、彼氏がいるらしい。彼女はちょっと恥ずかしそうに、答えた。
「去年からもなにも、わたしたち、長いつきあいなんですよ」
「もう5年よね」
ナオミが補足する。
「5年?! ってことは、中学生から?!」
「ええ。一級上の先輩だったんですけど、彼の卒業式のときに、わたしから告白して…」
そう答えながら、ミキちゃんの頬が、ポッと染まった。
「今じゃ結婚も考えてくれてるんですよ。彼が『大学卒業したら、すぐにでも』って」
「わぁ。すごい!」
「その日のために、ウエディングドレスを自分で縫うのが、わたしの夢なんです。そしていっしょに、小さなブティックを開きたいです。そのための貯金も、ふたりでコツコツやってます」
ミキちゃんはそう言って、ますます頬を赤らめる。
「『夢』っていうか、もう『目標』じゃない」
みっこもウィンクしながら、ミキちゃんに言う。

「いいなぁ。みんな若いわね〜。恋バナ多くって… わたしなんか、最近めっきりフケちゃって」
みんなの話しを聞きながら、小池さんがグビグビと『午後の紅茶』を飲み、『ふぅ』とため息ついた。
「小池さんは、彼氏いないんですかぁ?」
陽気な口調でナオミが訊く。
カリスマデザイナーの小池さんに、なんて大胆な質問。まったくナオミって、畏れを知らないわよね。
「もう2年くらいかなぁ。『彼氏いない』歴」
「ダメじゃないですかぁ〜。穴、塞がっちゃいますよぉ」
「こら! ナオミ。なんてこと言うの!」
「あははは。いいっていいって。セックスの仕方なんてもう忘れたし、このまま処女に戻るのもいいじゃない」
ナオミをたしなめるみっこを遮り、小池さんは愉快そうに笑う。

 そのとき、『こんにちはぁ』と楽屋口から声がして、大きなデザイナーズバッグを抱えた由貴ちゃんが、わたしたちのスペースに遊びにきた。
「こないだから描いてたみっこちゃんのイラスト。完成したから持ってきました」
「え? 見せて見せて」
みっこは嬉しそうに由貴ちゃんに言う。彼女はちょっと躊躇った。
「でも、もうすぐファッションショーがはじまるのに、お邪魔じゃないですか?」
「大丈夫よ。今は本番前のくつろぎタイムだから。ね、早く!」
「ええ…」
みっこに急かされ、由貴ちゃんは恥ずかしそうに作品を広げる。そのイラストは、クリスマスリースをアレンジした模様をバックに、みっこによく似た可憐な美少女が、可愛くポーズをとっている、ふんわりとしたイメージのものだった。
「わぁ。かわいい〜!」
イラストを覗き込んだ全員が、いっせいに声を揃える。
由貴ちゃんは去年の『講義室の王女』のイラストのあとも、みっこをモデルにした絵を何枚か描いていて、今年の美術部の作品展にも、そのイラストを出品していた。

「中原由貴さん、だったわよね。イラスト上手ね〜。華があるわ」
小池さんは感心したように、イラストと由貴ちゃんを交互に見た。
「そんな、ありがとうございます」
「中原さんは、絵で食べていくつもり?」
「えっ? そ、そんなことはあんまり考えてなかったけど… そうできればいいかなぁ、ってくらいで…」
「ね。今度、洋服に使う生地のプリント用の原画描いてみない? こんなリースのイラストとか、動物のキャラクターとか、花とか小物が素敵に描ける人。わたし探してたのよね」
「え? ほんとにいいんですか? わたしなんかで」
「もちろんよ。このショーが終わったら、ゆっくり他の作品も見せてね」
「はい!」

“ジリリリリリリ…”

そのとき、アリーナ全体にベルの音が鳴り響き、会場のエントランスの方から、たくさんの観客のざわめきや足音が聞こえてきはじめた。もう5時半の開場時間になったんだ。

「よしっ。おしゃべりはもうおしまい。今から気合い入れていくわよ!」
やわらかな笑顔から、ふだんのキリリとした仕事の顔に戻って、小池さんはみんなにカツを入れる。他のスペースの女の子たちも、ベルが鳴ったのを機にいろいろ作業しはじめて、ざわついていた楽屋は、一気に張りつめた雰囲気になった。

「じゃあ、わたしたちは客席の方から観てるわねぇ〜」
「頑張って下さい、みっこちゃん」
「あ〜あ。今年も出たかったなぁ〜。いいなぁ〜、みこちゃんは」
そう言いながら、ナオミと由貴ちゃんは楽屋を出ていった。小池さんとミキちゃんは、他のスタッフと衣装や道具の最後のチェックをはじめ、みっこは鏡に向かって、メイクを直しはじめた。

「なんだか久し振りね。みんなでわいわい、おしゃべりしたのって」
唇にグロスを塗りながら、みっこはわたしに言った。
「そうね。みっこも忙しかったし、みんなが揃ったのも久し振りだったわね。藍沢さんや上村君も顔を見せたし、なんだか今日はオールキャストって感じ」
「オールキャスト?」
「藤村さんと星川さんも来てるでしょ。今日はみっこのまわりの男性が、みんな集まってるってこと。みっこモテていいわね」
「ふふ。ほんとにあたしって、モテモテね」
みっこはそう言って、ペロリと舌を出した。
そのとき、再び会場にベルの音が鳴り渡る。

「開演10分前で〜す!」

進行係の女の子が悲壮な表情で叫び、楽屋の雰囲気がまた一段、厳しくなった。

 そういえば去年は、このファッションショーを、客席から観たんだった。
あのときみっこは、ステージを喰い入るように見つめたあと、突然席を立って会場から出ていき、わたしは彼女のファッションへの複雑な想いを、かいま見た気がした。
そんなみっこが、今年は『モデル』としてステージに立って、わたしは『フィッター』(モデルの着替え補助)として、それを手伝うなんて、あのときは思いもしなかったな。

 開演5分前のベルを合図に、準備を終えたモデルやスタッフたちが、バックステージに集まってくる。
壁一枚隔てた向こうの客席からは、ざわざわと波のようなざわめきが聞こえてきて、大勢の観客の息づかいを感じる。

「すごい。超満員よ」
客席をのぞき見ただれかの声が、薄暗いステージの袖にやけに響き渡って、余計に緊張を高める。

“ジリリリリリリ…”

 そして6時。
いよいよ、ショーの開演。
客席のライトが落ちていき、会場全体が次第に暗くなる。
わたしたちの待機しているバックステージも、誘導灯と非常灯以外の光が全部消え、目を凝らさないと周りが見えない。
観客席は真っ暗になり、ざわついていた会場も、水を打ったように静まり返る。

「出て!」
タイミングを見計らい、進行係の女の子が小声で合図すると、ステージの袖でスタンバイしていた、黒尽くめの衣装を纏った25人のモデル全員が、真っ暗なステージを、息を殺して足音を忍ばせ、それぞれのポジションについて、ポーズをとった。

しばしの静寂。

そんな暗闇の会場全体に、まるでなにかの予兆のように、マドンナの『ヴォーグ』のイントロが、神秘的な音色を響かせはじめた。それにしたがって、レーザーライトが点滅し、客席をなめるように動きはじめる。
そして、曲がノリのいいパートに入ったとたん、ライトが一斉にステージを照らし、それぞれポーズをキメていた25人全員のモデルを、くっきりと浮かび上がらせた。

“ゥワァァァァァァ…”

驚きと喝采がいっしょくたになった、歓声とも叫びともつかない声が客席から沸き起こり、その音はハウリングしながら大きなうねりになって、ステージに押し寄せる。
その渦のなかで、中世っぽい黒いドレスやタキシードを纏った25人のモデルが、一斉に『ヴォーギングダンス』を踊った。
客席からの歓声と拍手の渦が、一段と高まる。
みっこの言う『ゲイのダンス』のヴォーギングダンスは、今年大流行しているダンスで、手の振りが幾何学的でなまめかしく、まるでなにかの予言みたいに黙示的。
数ヶ月のレッスンの成果もあって、みんなのダンスは見事に揃っていた。

みっこは漆黒のバッスルスタイルのミニ丈ドレスを纏い、ステージの中央で踊る。
手の振りや腰使いがビシビシと決まって、可憐ななかにもセクシィな色気が漂っている。
スカートの裾からチラチラとのぞくガーターベルトとストッキングのレース模様が、なんとも艶っぽい。
そして、他のモデルたちの先頭を切って、センターステージまで悩ましい足どりでウォーキングしていくと、背中をのけぞらせて、見事なダンスを披露していった。

う〜ん。
爪の先から髪の流れにまで神経の行き届いたみっこのダンスは、他の人たちと較べても、圧倒的な技術力と表現力を持っている。こうして25人のモデルのダンスを見ていても、みっこがいちばん華やかで上手で、どうしても目を惹く。
観客席は、流行のヴォーギングダンスをアレンジした、ショーの派手なオープニングに、大きく湧いていた。

「いい? 1分半よ。最初のモデルたちが戻ってきたら、1分で着替えさせて、ステージに出して。みんな頑張ってね!」
「はいっ!」
バックステージでは、進行係がこれからの段取りを、改めて確認している。
幕間からショーの様子を伺っていたわたしは、モデルが戻ってくる時間が近づくと、緊張感を高め、自分のポジションについた。

今回のショーは、最初に全員のモデルを登場させてしまったせいで、オープニングから次のシーンへのつなぎが、モデルとスタッフにとっては、いちばんの難関なのだ。
与えられた時間は、わずかに1分半。
その間にモデルは素早く着替えて、ステージに出ないといけない。
リハーサルのときに何度も練習したけど、本番ではなにが起こるかわからない。
絶対に失敗できない。
経験を買われて、みっこがセカンドシーンの、最初のモデルを務めることになっていた。

「さつきちゃん。リハどおり、あなたはみっこちゃんの脱いだ服の整理と、次に着る服のセッティングを手伝って。わたしは髪をあたるから」
小池さんは次の出し物に使うコサージュを握りしめて、みっこの戻りを待ち構えている。
ショーイングを終え、ステージの袖に戻ってきたみっこは、観客向けのにこやかな表情から、いきなり真剣な眼差しに変わった。
『来た!』
緊張が高まる。
「いい? ここを乗り越えたら、あとは楽だからね!」
小池さんの檄が飛ぶ。
みっこに続いて他のモデルたちも、次々にバックステージに戻ってくる。
「みっこっ。こっち!」
ドレスのホックをはずしながら、みっこは小走りにわたしたちのスペースに駆けてくる。彼女は走りながらビスチェを脱ぎ、スカートのホックをはずして、素早く脚先からドレスを脱いだ。
服のラインに響かないように、みっこは下着をつけていない。遠慮なく、形のいいバストが現れる。
「はいっ! さつき」
すれ違いざまに、みっこはわたしにドレスを渡す。
ボスッと、ボリュームのあるドレスが、わたしの腕のなかに飛び込んでくる。

 バックステージはまるで戦場。
戻って来たモデルたちは大急ぎで着替えをしようとするが、バックステージは暗い上に、たくさんのスタッフがひしめいているから、自分のフィッティングスペースにたどり着くのも大変。おまけに手際の悪いチームは、衣装やアクセサリーの順番もグチャグチャになってしまってて、モデルも混乱して怒りだすしまつ。
リハのときは着替えはかろうじて間に合ったが、なにかひとつ手違いがモロに進行に響く危うさだ。

「はいっ。これ!」
さすがにイベント慣れしている小池さんは、手際もあざやか。
みっこが着やすいように、小池さんはブラウスを広げる。みっこはそれに、さっと腕を通す。
「さつき。スカート広げて!」
わたしはあわててスカートを床におろし、みっこが入れるスペースを作った。
ブラウスのボタンを留めながら、みっこはスカートの輪のなかに飛び込む。それを確認して、わたしはスカートをたくし上げる。
「みっこちゃん、髪。これつけて!」
「みっこ、スカート終わったわ。小池さん、ベルトちょうだい!」
そのとき、ステージの袖から、悲鳴のような声があがったと思うと、進行係が真っ青な顔で叫んだ。

「26、27、28番、出ます! 準備いいですか!」
「えっ? まだ40秒しか経ってないのにっ?」
「ステージのモデルが振りを端折ってしまって、もう帰ってきたの!」
「うそっ! まだ服着てないのにっ!」
「もうダメ! 戻ってくるわ!」
最後のモデルは緊張のせいか、振りを間違ってしまい、予定より早くセンターステージから戻ってきてしまった。
早すぎる!
予定より20秒も早いっ!
ステージがガラ空きになっちゃう!

「小池さん、髪いいわ。出ます!」
「えっ? みっこちゃん、まだコサージュが」
「大丈夫」
みっこは小池さんから受け取ったコサージュを、ステージの袖に駆けていきながらつける。
「みっこ、靴は?!」
「履いた」
「ベルトも…」
「してるわ」

いつの間にやったんだろ?
まだ渡してなかった靴もソックスも、ベルトやネックレスまで、みっこはすっかり身につけていた。
ステージの袖にスタンバイした彼女は、脇に置かれた大鏡で自分の姿をチェックすると、ハラハラとなりゆきを見守っている進行係に言う。
「26、出ます」
「27、28はっ?」
「ダメっ。あと15秒」
「OK もたせるわ」
そう言って、わたしたちに軽くウィンクして微笑むと、みっこはステージのライトのなかに、飛び出していった。

 ステージはみっこの独壇場。
つい今までのバックステージでの修羅場を、微塵も感じさせない。
春の女神のように明るく微笑みながら、アップテンポの曲に合わせて軽やかなウォーキングで、彼女はクルリクルリと、小気味いいターンを重ねていく。
ウエストがきゅっと絞られた、春色の綺麗なラインのサーキュラースカートが、みっこがターンする度に、ふわりふわりと舞い上がり、花びらのようなシルエットを描いていく。
セットの途中だったヘアも、みっこは上手く纏めてふんわり感を出し、それが自然で、春のイメージにすごく似合っている。
ランウェイを、春風のようにふわふわとウォーキングしながら、センターステージで踊るようにターンをし、客席にウィンクして投げキッスをしてみたりと、まるでアドリブとは思えない素敵なショーイングで、みっこは観客をひとりで魅了していた。

「ゴメン。緊張してアガっちゃって… お客さんが満員のステージって、リハーサルとは全然違うんだもん。わたしもう、ダメ」
振りを間違えたモデルが、泣きそうな顔でベソをかきながら、隣をすれ違った。
チームのメンバーが、彼女の肩をたたいて、慰めている。

「はぁっ。まったく、すごい子ね」
その様子を一瞥した小池さんは、ステージの袖から客席のみっこを見つめ、呆れたようにため息をついた。
「着替えがたったの40秒か。さすがね〜」
「根本的な着替え方が違うのよ。他のモデルって、はだか見られるの恥ずかしがったりして、脱ぐのが遅いじゃない。その点森田さんは、あっぱれなくらいスパッと脱いでくれちゃって、やっぱりプロモデルは意識が違うわよね」
他の4年生が、小池さんの隣にやってきて、そんな感想を言っていた。

 最大の修羅場をなんとか乗り切ってしまえば、あとのフィッティングは、ずっと楽だった。
小池さんの指示もいいし、衣装やアクセサリーもよく整理されていて、戸惑うこともない。
みっこも自分でサクサクと着替えをしてくれるので、わたしたちは気持ち的にも余裕ができ、みっこがステージに出てしまえば、袖の隙間から、その様子を眺めることもできた。

 みっこが着る衣装は、全部で9着。
去年のファッションショーに出さなかった分を挽回するかのように、参加チームのコレクションのなかではいちばん多かった。

 今年の小池さんのファッションテーマは、『ゴシック』。
女の子ならだれでも憧れる、中世のお姫様のようなアイテムをアレンジして、いろいろ盛り込んでみたらしい。
最近は『MILK』や『Jane Marple』といった、『ロリータファッション』と呼ばれるトレンドが注目されはじめてきたらしいけど、小池さんはそれに、バッスルスタイルやレースアップ、コルセットやクリノリンといった、中世の衣装の要素を取り入れてアレンジし、ドレスによってはクリベージ(胸の谷間)を強調して、女っぽさを出したりもしている。
色彩も、オープニングに着た漆黒のドレスから、ビビッドなプリント模様やパステルカラーと、とっても多彩。
ドレスは一点一点、ラインも丈もシルエットも違っているものの、『ゴシック』をテーマにして統一感を出している。
『ロリータ』っていうと女の子っぽい甘いイメージだけど、あまり幼くなりすぎず、中世独特の品格と、形式美のような優美さを醸しだしていて、それぞれ素敵なデザイン。
そしてみっこは、そのひとつひとつのドレスを、それにいちばんふさわしいポーズをつけ、服のシルエットを見せながら、表現していく。
わたしみたいな素人が見たって、その表現力は、他のモデルとの差が歴然としていた。

『西蘭女子大のミスコンがわり』というだけあって、このファッションショーに起用されているモデルは、みんな、みっこに負けず劣らずの美人ぞろいで、華もあってスタイルもよく、ほとんどの子がみっこより身長も高いんだけど、『ファッションモデル』という点から見れば、みっこに敵う女の子はいなかった。

ぎこちない足どりや、背筋を曲げて歩くだけで、いきなり服は死んでしまう。
モデルの自己主張が強すぎても、服は主役になれずに、脇に退いてしまう。
だけどみっこは、服を主役に引き立て、まるで命を吹き込むように、自由に舞い踊らせ、彼女のからだに鮮やかにからみつかせ、見る人の目に、印象的な残像を残していく。
小池さんは、それをただ、黙って見つめていた。

そうじゃない…

感動で、言葉が出なかったのかもしれない。

 

 光り輝いたステージも、やがてフィナーレ。
みっこは、オフホワイトのサテン地に、生成りのレースをふんだんに使って、白のグラデーションを描いたウェディングドレス姿で登場した。
背中のレースアップとプリンセスラインが、可愛らしさのなかに女性の色香を醸しだしている。
長い豪華なトレーンを引きずりながら、みっこは清楚な足どりで、センターステージへ向かって、ゆっくりと歩いていく。
満面の笑みに、興奮を抑えるように紅潮した頬は、まるで本物の花嫁のよう。
センターステージの中央で、静かに腰をかがめて会釈したみっこは、フィナーレを飾るかのように、大きく腕を広げて、観客の拍手に応え、持っていた真っ白なブーケを、客席に投げた。
『わっ』と、歓声が沸き起こる。

「…わたし、やっぱりみっこちゃんに着てもらえて、よかった」
ずっと黙ったまま、目を凝らして、みっこのウェディングドレス姿を見守っていた小池さんは、ぽつりと言った。
きらびやかなステージを見つめる瞳には、涙がたまっている。
日頃はクールで、しっかりしている小池さんだったから、それは意外な光景だった。
「わたしの服が、こんな風に揺れたらいいな、広がったらいいな、って思ってたとおりに、みっこちゃんはわたしの服を魅せてくれた。
ううん。そうじゃない。
みっこちゃんは、わたしの服に、命を与えてくれた。
ほんとに嬉しい。
こんな嬉しいことって、ない!」
小池さんはそう言って、ハンカチで瞳を押さえた。

ああ…
この人は、こんなに服を作るのが、好きなんだ。
そう感じると、なんだかわたしまで、感動してきちゃう。
わたしは去年の学園祭での、みっこの言葉を思い出して、そのまま小池さんに告げた。

「みっこは言ってたんですよ。
『一着一着に作ってくれた人の愛情とか情熱を感じるし、それを着こなすことに、誇りと満足感みたいなものも感じる』、って」
小池さんは黙ってうなずきながら、またハンカチで瞳を拭った。
あのときのみっこの言葉の意味が、ようやくわかった気がして、わたしはなんだか胸が熱くなってきた。
『魂がシンクロする』っていうのかな?
デザイナーの小池さんの思いを、みっこがすべて受け止めて表現できたとき、ひとつの『奇跡』が生まれるのかもしれない。

 エンディングのテーマ曲がクライマックスを迎え、興奮のさめない様子で、モデル全員がステージに並ぶ。
衣装を作ったチームのスタッフも、全員ステージにあがり、観客席に向かって笑顔で手を振る。
会場の万雷の拍手のなか、ライトがさらに輝きを増し、それぞれのチームのスタッフとモデルを紹介するアナウンスが流れ、紹介されたチームが中央に進んで会釈をしていき、観客は拍手を贈る。
『Misty Pink』はそのなかでも、ひときわ大きな拍手をもらい、小池さんはそれに応えるように、力いっぱい観客席に手を振った。

そしてフィナーレ。
全員が客席に、ちぎれんばかりに手を振るなか、ライトがゆっくりと落ちていき、ステージは漆黒の世界へ戻っていった。

舞台が暗転しても、わたしたちの興奮はまだ醒めない。
袖に引っ込んだとたん、それぞれのチームのメンバーは歓声を上げ、混みあったバックステージのあちこちでは、モデルがスタッフやデザイナーと喜びあったり、抱きあったりして、舞台の裏側は、ファッションショーが成功した喜びと安心の色に包まれた。

「ありがとう! みっこちゃん! ほんとにありがとう!」
小池さんはウェディングドレスを纏ったみっこを抱きしめ、感極まったように、頬にキスをする。
みっこも熱く瞳を閉じてうなずき、小池さんの首にぎゅっと腕をまわした。
「本当によかった」
小池さんは、思わず自分のしたことが恥ずかしいという風に、みっこから離れたが、それでも彼女の手をとったまま、頬を赤らめながら言った。
「あなたにわたしの服を着てもらえて、本当に嬉しかった」
「ありがとうございます」
「一年待った甲斐があったわ」
「…あたしもです」
「あなたは最高のモデルよ!」
「…」
みっこは瞳を閉じたまま、満足そうに小池さんの最大級の賛辞を聞いている。
「わたし、今日くらい、自分が服を作っててよかったって、思ったこと、ない。
わたし、必ず一流のデザイナーになるから! そして、もっといい服を、たくさん作るから!」
「ええ。期待しています」
「そのときは、もう一度、わたしの服を着てちょうだい。きっと!」
「はい」
そううなづくと、みっこは小池さんの手をぎゅっと握り返して、まっすぐに瞳を見つめて、ニッコリと微笑んだ。
「小池さんの服。とっても素敵でした。着せて頂けてあたし、幸せでした」
「ありがとう! みっこちゃん!」
彼女はもう一度、みっこを抱きしめる。

こうして『1991 Seiran Women's University Fashion Show』は、幕を閉じた。

 

 楽屋でスタッフとモデルみんなで、簡単にジュースで打ち上げの乾杯をしたあと、わたしたちはそれぞれ、片づけに取りかかった。

「みっこ、すっごいよかったわよ。なんかわたしまで、感動しちゃった」
洋服や靴、小物類を、カバンやポーチに分類して詰め込みながら、わたしは隣でいっしょに片づけをしているみっこに言う。小池さんの『Misty Pink』は、出場チームのなかでいちばん作品点数が多かっただけに、片付けもほかより時間がかかっていた。
本格的な打ち上げパーティは、9時から場所を変えてやる予定だったので、どのチームも片づけが終わり次第会場に移動し、楽屋にはわたしたちだけが残っていた。

「…ん。ありがと」
「みっこがモデルをしてるとこは、モルディブのときしか見てないけど、ファッションショーだとまったく、雰囲気が違うわね」
「…そうね。やっぱりライブだから」
「そうよね〜。お客さんとの一体感っていうか、撮影とは違う緊張感があるわよね」
「…ん。あたしも久しぶりで、とっても充実してた」
みっこは半ば放心状態で、受け答えしている。
ショーの余韻がまだ残っているようで、みっこは気怠い達成感に酔っているみたい。

「よしっと… 片づけも終わったわね」
いくつかの大きなトランクに、衣装を全部詰め終えた小池さんは、軽く額に汗を滲ませている。
「お疲れさまでした。あたしはもう少し支度に時間がかかりますから、小池さんお先にどうぞ」
「そう? じゃあ、搬出もあるし、わたしは先に行くわね。打ち上げパーティは9時から学校前の『森の調べ』よ。みっこちゃんたちも来るでしょ?」
「ええ。あたしは行くけど…」
「あ。わたしも行きます」
「わかったわ。じゃあ、そのときにまた会いましょ!」
「はい。じゃあ、またあとで」
「じゃあ、お先に。お疲れさま!」
「お疲れさまでした〜」
そう言いながら、小池さんは他のスタッフと、たくさんのバッグを抱えて、楽屋を出ていった。

「そう言えば、さつきはロビーに川島君、待たせてるんじゃない?」
みっこは乱れた髪をセットしながら、思い出したように言う。
「あ。そうだった」
「あたし、まだ髪を直したりとかするから、先に行ってていいわよ」
「え? いいよ。みっこが終わるまで待ってるわ」
「さつきも打ち上げ、行くんでしょ?」
「うん」
「打ち上げパーティは、終わるの遅くなるかもしれないわ。そうしたら、川島君とは今日はもう、会えないかもよ?」
「…そうね」

昼間、川島君とはあんな別れ方したから、なんとなく気まずい。
『ファッションショーのあと、ロビーで』って言ってくれたものの、ショーが終わって時間も経ったし、ちゃんと待っててくれてるか、わからない。
みっこの言葉で、わたしも少し、不安になってきた。
今日のけんかを翌日まで持ち越したくないし、かといって、打ち上げには参加したいし…
みっこは少し心配顔で、わたしに言う。
「仲直りだけでも、ちゃんとしといた方がいいんじゃない?」
「…ん。 そうね。じゃあ、ちょっとロビーに行ってくるわね」
ちょっと迷いながら、わたしはそう答えた。
昼間のイヤな雰囲気を引きずったまま、川島君とずっと会えないでいるより、ショーが終わった今の、ハイな気分で川島君と話せば、少しは状況もよくなるかもしれない。とりあえず、川島君に会おう。
そう思い直して、わたしはみっこをひとり残して、楽屋を後にした。

運命の分かれ道は、そんなささいな所に潜んでいる。
今、思い返せば、それがわたしたちにとって、最後のターニング●ポイントだったのかもしれない。

「さつきちゃん、お疲れさま」
約束通り、川島君はちゃんとロビーで待っていてくれて、通用門から顔を見せたわたしに、暖かく声をかけてくれた。
川島君の他に、藤村さんと星川先生もいっしょにいる。
「とてもよかったじゃない。服のデザインも素敵だったし、わたしたくさん写真撮っちゃったわよ」
「みっこちゃんの独壇場だったね。やっぱりこういうステージじゃ、素人とプロの差は歴然だな」
「オープニングのあと、みっこちゃんがひとりでステージ持たせてたでしょ? あれはもしかして、演出じゃなくて、着替えにもたついてたからとか?」
「あのシーンか。演出は派手で面白かったけど、ちょっと無謀すぎたかもな。でもその無茶っぷりが、学生の特権でもあるんだよな」
ショーやみっこの感想を言い合いながら、しばらくはみんなロビーで立ち話をしていた。

「そういえば、みっこちゃんは?」
藤村さんがわたしに訊いた。
「今お化粧直ししてます。もう少しかかるそうです」
「そうか。みんなで食事でもと思ったけど、どうかなぁ?」
「9時からショーの打ち上げパーティがあるんですけど… みなさんもいかがですか?」
「そんな。わたしたちは部外者だから、遠慮しとくわ」
「そうだな。こんなおじさんが行くより、若い女の子だけででワイワイやった方がいいだろ」
わたしの誘いを、藤村さんと星川先生は遠慮する。川島君はわたしに訊いた。
「さつきちゃんもみっこと、打ち上げに行くのかい?」
「ええ。せっかくだから行こうと思うの。ごめんね」
「いいよ。今日は楽しかったよ」
「ほんとに?」
「ああ。さつきちゃんとは昼間、いろいろ回れたし」
「そうね。楽しかった」
「打ち上げのあと… ちょっと会えないかな?」
少し考えたあと、川島君が切り出した。
「せっかく藤村さんや星野さんが東京から来てくれたんだし、あと、さつきちゃんにも、話しとかなきゃいけないこともあるし」
「それは、怖いけど…」
「大丈夫だよ。悪い話じゃないんだから」
「そう?」
「心配しなくても、さつきちゃんのことは、これからもずっと、大事にするよ」
「…ん。 嬉しい」
彼の言葉に、わたしは素直にうなずいた。

川島君の話が、たとえわたしたちの恋愛に距離を生むようなことでも、それが彼の選んだ道なら、わたしもそれを受け入れてあげたい。祝福してあげたい。
川島君にはそんな、人を感動させられる仕事をしてほしいし、それができるだけの力を、彼は持っているし、回りの人たちから認めてもらっている。
わたしの小さなわがままで、そんな彼の可能性を潰したくはない。

ひとつのステージが、わたしをこんなにも素直な気持ちにさせてくれた。
今までのわだかまりが、さっきのファッションショーの感動の余韻のなかで、まるで春の淡雪のように消えていくみたい。
やっと抜け出せそう。
そう思って、わたしはようやく、心に日が射してくるような気持ちになった。

「まっびぃ〜!」
「あの女、すっげ〜エロいじゃん。あんなのとヤリてぇよな〜」
「『ガーターベルト』っていうんやろ? ふともものあの紐はそそるよな。パンちらも生だったしな」
「あれ、やっぱりノーブラだったろ? ビーチク透けて見えてたぜ。オレ興奮したぜ」
「西蘭のミスコンがわりだっていうから来てみたけど、あの女最高だったよな」

そのときわたしの後ろの方で、ふたりの男が興奮しながら話しているのに、気がついた。
なんだか聞き覚えのある声。
何気なく振り向き、ハッとして目をそらすと、わたしはあわてて川島君の陰に隠れるようにした。

「さつきちゃん。どうしたんだ?」
わたしの突然の行動に、川島君が不審がる。
わたしは小さく叫んだ。
「去年の夏の、ナンパの人たちっ!」

そうだ!
去年の夏、わたしがはじめてみっこと海に遊びに行ったとき、みっこをナンパしてきて、逆にさんざん奢らされ、最後は夜の海で醜態さらけ出してしまった『サングラス』と『はにわ』だ。
ふたりはわたしにはまったく気づかない様子で、話を続けた。
「だけどあのモデル。もしかして去年オレたちのこと、騙してバカにしやがった女じゃないのか?」
「おまえもそう思った? オレも『なんか見たことある女やな』って思ってたんよ」
「だろ?!」

うそっ。
この人たち… みっこのこと、覚えてたんだ!

「こんなところにいたなんて、ビックリしただい!」
「くっそ〜っ。あの女のせいでオレのクルマ、あのあと戻ってみたらムチャクチャにされてたんだよな〜。カーコンポも盗られるしさ」
「それに2万円もするメシ、おごらされたよな」
「おまけにもう一歩のところで逃げやがってよ。思い出しただけでも腹が立つゼ!」
「なんとかしてーな」
「なんとかしたいゼ」
「ヤッちゃるか?」
「そうだな!」
「こっちが楽屋か!」

『サングラス』と『はにわ』は語気を荒げながら、足早に楽屋へ続く通用口へ入っていった。

「大変っ!」
ふたりの姿が重い楽屋口のドアの向こうに消えてしまうと、わたしは大慌てで川島君に叫んだ。
「どうしたんだい? さつきちゃん」
藤村さんが訝しげに訊く。
「『去年の夏のナンパの人たち』って、さつきちゃんが前に話してくれた、ナンパ兄ちゃんのことか? みっこにさんざんな目にあわされたっていう」
ピンときた様子で、川島君が言った。
「そう! そのときの人たち。今、みっこのことを『ヤッてやる』なんて言って、楽屋の方へ行った!」
「そりゃ大変だ。早くみっこを捕まえないと」
川島君は驚いて言う。
「『ヤッてやる』なんて、物騒な言葉ね」
「なんだかわからないけど、とにかくみっこちゃんを捜した方が、いいみたいだな」
「藤村さん。お願いしますっ。楽屋にいるはずですから」
わたしたちが楽屋に向かいかけたとき、ナオミとミキちゃんがやってきた。
「あ〜。さつきちゃ〜ん。なんかいい男たちに囲まれてるぅ〜」
「あっ、ナオミ。みっこ見なかった?」
わたしは早口でナオミに尋ねる。
「ううん」
「楽屋の方、だれかいた?」
「今から行こうと思ってたの」
「ナオミ、いっしょにみっこ捜すの、手伝って!」
「うん。いいけどぉ…」
「わたしも手伝います」
状況の見えていないナオミとミキちゃんにも加わってもらい、わたしたちはとりあえず、楽屋に急いだ。

 ナオミの言うとおり、楽屋にはだれもいなかった。
冷たく蛍光灯の灯った無機質なコンクリートの部屋は、シンと静まり返っていて、みっこはおろか、人の気配もなかった。

「あっ。あの花束」
ナオミがそう言って、小部屋が並ぶ通路の奥に走っていく。
見ると通路の非常口の前には、真紅の大きな薔薇の花束が落ちていて、花びらに踏みつけられたような痕があった。
これは…
みっこが藍沢氏からもらった花束!
それがこんな所に落ちているなんて…
なんだかイヤな予感がする。
「もしかして外かもしれない。ぼくは外の方を捜してみるよ」
川島君はそう言って、非常口を飛び出す。
「じゃあぼくも、外を捜してみよう」
藤村さんも外に出て、川島君と反対の方向へ小走りに駆けていく。
「わたしはトイレとか見てくる!」
「さつきちゃん。あたしも行く!」
「わたしも手伝います」
わたしが駆け出すと、ナオミとミキちゃんもいっしょについてきた。
「じゃあ、わたしはみっこが来たときのために、ロビーで待ってるわね!」
星川先生は、みっこを捜しに出たわたしたちに叫んだ。

楽屋やホールのトイレをくまなく捜し、だれもいないことを確認して、わたしたちはとりあえずロビーの星川先生の所に戻り、そこでみっこや他の人たちを待った。

だけど、みっこは来ない。
あれからもう、10分以上が過ぎている。
「どうしよう、星川先生」
わたしは不安と緊張で語尾を震わせながら、すがるように星川先生を見上げた。

どうしてこんなことになってしまったの?
せっかくファッションショーもうまくいって、久し振りにみっこや川島君との一体感も感じて、わたしの気持ちもようやく落ち着いてきたっていうのに。

「みっこ、来た?」
さらに5分くらい経って、川島君がハァハァと息を切らしながら、ロビーに戻ってきた。
「まだ! 外にもいなかったの?」
「どこにも」
「グラウンドの方にはいないみたいだったよ」
そう言って藤村さんも戻ってくる。
「じゃあ、裏山の方かもしれない!」
川島君は息つくひまもなく、また外に出ようとする。
「わたしも捜す!」
そう言って、わたしも川島君について行こうとした。
「よし。みっこちゃんが見つかっても見つからなくても、9時にはここに戻ってくるようにしよう」
藤村さんはそう言いながら、わたしたちとは反対の出口へ向かった。
「わたしも行くわ。ナオミちゃんたちは、ここでみっこを待っててね」
「うん!」
星川先生もナオミたちを残して捜索に加わり、わたしたちはアリーナの外に出た。

 夜のキャンパスは明かりを灯した模擬店がずらっと並んでいて、人通りも多くて賑やかだけど、キャンパスの回りに広がる森や丘は真っ暗で、人の気配はない。

「川島君。どうしよう…」
わたしはみっともない声を上げながら、川島君を見た。
彼も心なしか蒼ざめた表情で、わたしを少しでも安心させるように、『大丈夫だよ』と繰り返す。

そうよね。
案外みっこは、模擬店なんかにいて、友だちと話に夢中になってるのかもしれない。

『どうしたの? さつき。そんなに慌てて』
みっこはきょとんとした顔で、わたしを見る。
そうだったら、どんなにかいいだろう。
わたしは少しでも自分を落ち着かせようとして、そんな風に考えてみたけど、みっこを捜す足どりが知らず知らずのうちに速くなっていくにつれて、不安も増すばかりだった。

「みっこ知らない?」
「みっこ見なかった?」
いつか川島君ともはぐれて、わたしは見かけた知人を片っ端から捕まえては、みっこの行方を訊いた。
だけど、みんな首を横に振るだけ。

そうしているうちにもうすぐ9時。
わたしはいったん、アリーナに戻ろうと思い、キャンパスの裏の森へ続く小径を、小走りに走っていった。
そのとき、うっそうと繁った森の奥から、人の声が聞こえたような気がした。
緑の多い西蘭女子大キャンパスのなかでも、ここはいちばん森の深い所で、奥には小さな池もある。
昼間、みっこと歩いたときは明るく、樹々のざわめきもさわやかだったこの森も、夜は真っ暗で街灯もなく、大きな樹木のシルエットが、魔物か怪物のように道を塞いでいる。
「みっこ?」
怖さも忘れて、わたしは森のなかに入っていった。

「みっこ」
「みっこ?」
少し歩いて立ち止まっては、わたしは彼女の名を呼ぶ。
返事はない。
やっぱり気のせい?
なんだか泣き出してしまいそう。
みっこはどこに行ってしまったの?

「…」

そのとき、森のもっと奥の方から、かすかに人の気配がした。
『だれかいる!』
わたしは足音を殺して耳を澄ませながら、そちらに向かう。

「うっ… うっ」
人の気配は次第にはっきりして、それが泣き声だというのがわかった。

「みっ… う 大… だ… ね」
とぎれとぎれに、男の人の声もする。
「川し… く…」
その声は確かに、みっこと川島君だった。
川島君、先にみっこを探し当てたんだ!
わたしは少し安心した。
だけど、みっこの様子は、ただごとじゃないみたい。
いったい彼女に、なにが起こったんだろ。
いてもたってもいられない。

「みっこっ!」
わたしはいっそうの不安にかられながら、そう叫んで、ふたりのいると思われる方へ走り寄り、茂みを抜けた池のほとりに出た。

「!」

そのとたんわたしは、目にした景色に思わず足がすくんで、動けなくなった。
声も出ない。
わたしは張りついたように立ちすくみ、目を凝らしてふたりを見た。

川島祐二と森田美湖は、抱きあっている!

川島君は、座り込んでいるみっこをかばうように抱きしめ、みっこは川島君の背中に両腕を回して、しがみついている。

「好き…」

そう言って森田美湖は、自分のくちびるを、川島祐二の口にきつく押しつけていた。彼もみっこの想いを受け入れるように、彼女の頬を両手で包み込む。

信じられない!

「!」

わたしに気がついたみっこは、川島君を跳ねのけると、しゃがみこんだまま背中を向け、両手で乱れたブラウスの胸元を隠す。
わたしはなにがなんだかわからず、今来た方向へ夢中で駆け出そうとした。

「行くなっ!」

川島君が大きな声で、わたしを怒鳴った。
思わず足がすくむ。
彼はみっこの側を離れ、わたしの腕を掴んだ。
「離してっ。イヤッ!」
わたしは思いっきりからだをよじって、川島君の腕を振りほどこうとしたが、川島君はわたしの腕を握る手に、さらに力を込めて言った。

「落ち着くんだ!」
「なにを落ち着くのっ? あんなことして!」
「みっこが…」
川島君は語気を震わせながら、そう言ったきり、黙ってしまう。
わたしはみっこを振り返った。

ブラウスが… 破れている。
ボタンもちぎれ、ブラジャーがあらわになっている。
スカートも泥まみれになっていて、引き裂かれたストッキングと引きちぎられたショーツが、そばに落ちている。
みっこの髪には土と草切れがついていて、頬には痛々しい青あざ。
血の滲んだ手で、みっこは破れたブラウスの胸元を固く握りしめ、肩で苦しそうに息をしながら、わたしの視線を避けるようにして、ぎゅっと唇を噛み、うつむいていた。

「みっこ…」

彼女の身に起きたことを想像して、わたしは全身の力がいっぺんに抜けてしまい、その場にぐったりと座り込んでしまった。
わたしも泣き出してしまいそう。
なんでこんなことになるの?
わたしたち、もっとうまくいくはずだったじゃない。

絶望と喪失感が頭の中を掻き乱し、わたしも両手で顔を覆った。

 

continue

15th Apr. 2016

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