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Canary Ensis




 ケーキづくりで大事なのは、手際のよさと材料のよさ。

クッキングスケールに薄力粉を、レシピどおりの分量になるまで乗せていく。
直径18cmのスポンジケーキに使う薄力粉は、90gくらい。
バターやグラニュー糖も量っていくけど、レシピに書いてある分量のグラニュー糖をスケールに盛ると、あまりの多さにびっくりしてしまう。
やっぱりケーキって、砂糖でできてるんだな〜と実感。
なので、レシピよりほんのちょっぴり砂糖を減らして、ささやかな抵抗をしてみたり。

別立てと共立てなら、わたしは別立て派かな。
理由は、ふんわり軽く仕上がるから。
共立てで作るのも悪くないけど、わたしは天使の羽みたいな、ふわりと軽いスポンジが好きなんだ。

卵白と卵黄を別々に泡立て、それを同じボールに移し、さくさくと手早くかき混ぜながら、バニラエッセンスを数滴たらし、粉をふるった薄力粉と混ぜ合わせていく。
途中、ヘラで混ぜながら指で生地をすくって、ちょっと味見。
はしたないけど、お菓子を作っていると、つい、やっちゃうのよね。

できあがった生地を型に流し込み、熱したオーブンレンジに入れて時間をセット。
あとは綺麗に膨らむのを祈りつつ、焼き上がりを待つだけ。

 

 わたしは真っ赤な灼熱の光に照らされて、じわじわとふくれあがっていくスポンジを、オーブンレンジの前に椅子を持ってきて座りこみ、頬杖つきながら、じっと眺めていた。
こうやって、ケーキができあがっていくのを、ぼお〜っと見てるのは好き。

遠くで電話のベルの音がする。
わたしはそれに出る気もなく、オーブンレンジを覗き込んでいた。
赤く熱された空気が頬に当たり、顔が火照る。

「さつき〜。電話よ〜」

保留の『エリーゼのために』が聞こえて、玄関先からお姉ちゃんが、わたしを呼ぶ。
「ごめ〜ん。今、手が離せないの〜」
わたしはオーブンレンジを見つめたまま、答える。
パタパタとスリッパの音が近づき、キッチンにお姉ちゃんが現れて、わたしに言った。
「どうしたのさつき? 森田さんからの電話よ。さっきは川島君からもかかってきたのに、どうして出ないの?」
「うん… 別に」
「『別に』じゃないでしょ。あんたたち、ケンカでもしてるの?」
「そういうわけじゃないけど… 『あとでかける』って言って。今忙しいの」
「なんなの? 朝からいきなりケーキなんて作りはじめて。なにかの記念日かパーティ?」
「そういうわけじゃないけど…」
「…っとにもう、さつき、おかしいわよ」
ぶつぶつ言いながら、お姉ちゃんは戻っていった。わたしはひとり、じっとオーブンレンジを見つめたまま、昨日、地下街から川島君にかけた電話のことに、想いを巡らせた。

 

『行ったよ』

「…みっこと、長崎に… 行った?」
そう訊いたわたしに、少し沈黙したあと、川島祐二はひとこと、そう答えた。

その答えを聞いて、わたしはこれまでグルグルと不確定なまま、心のなかで渦巻いていたいろんな疑問や妄想が、ピタリと動きを止めて、ひとつの形に固まっていくような気がして、怒りや悲しみの前に、一瞬、ほっとした安堵感を覚えた。
だけど、そのすぐあとに、『なぜ』『どうして』という想いが、とめどなく押し寄せてきて、なにも話すことができず、わたしは受話器を握りしめたまま、電話ボックスのなかに立ちすくんでいた。
川島君は、そんなわたしの状況を知ってか知らずか,言い訳するように話しはじめた。

「今、卒業展用の写真を撮っているんだけど、みっこにそのモデルをお願いして、長崎まで行ったんだよ。でも時間がなくて、みっこは本業で忙しくて、スケジュールが合う日も限られてて、急に日程が決まって、さつきちゃんに声かけられなかったんだ。ごめん。悪いと思ってるよ」
「…どうして」
「え?」
「どうして言ってくれなかったの?」
「だから、日程が急に決まって」
「電話一本かけてくれればすむことじゃない? それともなにか、わたしに言えないことでも、してるの?」
「そんなことないよ」
「川島君。みっことつきあってるの?」
「え? なに言ってるんだ。そんなはずないじゃないか」
「みっこのこと、好きなの?」
「そりゃ… 好きだけど。それは友だちやモデルとしてで、別に恋愛感情はないよ」
「嘘」
「嘘じゃない。みっこには純粋に、ぼくの作品づくりのために、協力してもらってるんだ。だから、『好き』とか『つきあってる』とか、そんな風に受け取ってほしくないんだよ。
昔、恵美ちゃんにモデルやってもらってたの、覚えてる?
恵美ちゃんもいいモデルだったけど、恋愛関係でもめて、酷い別れ方してしまったから、ぼくはその二の舞はしたくないんだ。
その点、みっこは一流のプロモデルで、ぼくなんかが撮らせてもらえるのは、奇跡みたいにありがたいことだよ。
彼女はカメラマンとの関わり方も心得ているし、さつきちゃんの親友だし、ぼくとさつきちゃんがつきあってるのを当然知ってるから、恵美ちゃんみたいに、恋愛絡みでゴタゴタしたりしないよ。
彼女とは、『モデルとカメラマン』として、きっちりやっていけるはずだよ」
「…」
「さつきちゃん?」
「…」
「聞いてる?」
「………わかった」
「え?」
「もういい」
「もういいって?」
「じゃあ。おやすみなさい」
「あ… ああ。ほんとにいいの?」
「うん」
「ほんとに納得してくれた?」
「ええ。おやすみなさい」
「ああ… おやすみ」

 

そう言って電話を切ったあと、わたしは無理に自分を納得させようとした。

彼の言うように、高校時代から去年の秋まで、川島君は蘭(あららぎ)恵美さんに、恋愛感情抜きでモデルになってもらい、写真を撮っていた。
そのことで、回りからは冷やかされたり、俗っぽい目で見られたりしたみたいだけど、川島君にとっては、作品づくりのために、モデルの女の子とふたりっきりで出かけるのなんて、特別な意味を持たないことなんだ。
川島君はそうやって、『友だちとして』、『モデルとして』女の子とつきあえる。
だからみっこのことも、『卒業展のモデル』と割り切って、長崎まで撮影に出かけたんだ。

理性でそう言い聞かせてみても、でも、心のどこかに、ざわざわした感情が残る。
森田美湖はもともとわたしの親友で、川島君はわたしを通して、彼女と仲良くなった。
なのに、そのわたしになんの伺いも立てず、みっこにモデルを頼んで、わたしが知らないうちにふたりだけで撮影に行くなんて、わたしだけのけ者にされたみたいで、とっても気分が悪い。
川島君にはそういう、乙女心をわかってないような鈍感さがあるけど、自分の作品のできにこだわる彼には、そういう『友だちになった順番』なんて、多分、どうでもいいことなんだろうな。

でも、わたしにはそれは、『どうでもいいこと』なんかじゃない。
わたしにはないものをみんな持っている森田美湖と、恋人の川島君が、わたしの見ていない所で、ふたりっきりで会っているのは、とっても不安。
そもそも、わたしになにも言わず、ふたりで連絡をとること自体、もうわたしなんか必要じゃないんだって、思ってしまう。
みっこにしても、『川島君からモデルに誘われた』って、ひと言あってもよさそうなものなのに、なんにも言ってくれなかった。
そんなんじゃ、わたしはふたりを疑うしかないじゃない。

わたしはふたりにとって、もう、いらない存在。
邪魔な存在?

ううん。
そんな風に、悲観的になっちゃいけない。
川島君はわたしのことを『好き』だと言ってくれるし、みっこだって『ずっと、友だちでいようね』って言ってくれる。
その言葉を糧に、わたしは自分の嫉妬心と、卑屈になる気持ちを、なんとか抑え込んでいくしかなかった。
朝からケーキを作りはじめたのも、そんなせめぎあう気持ちを、少しでも紛らそうと思って。
昨日おとといと、いろんなことが重なりすぎて、今はなにも考えたくない。

 

 わたしの鬱々とした気持ちとはうらはらに、スポンジケーキは会心の出来。オーブンレンジから出すと、ふっくら綺麗に焼き上がっていて、ちょっと嬉しくなる。
どんなケーキにしようかな。
とりあえずスポンジを焼いてはみたものの、衝動的に作りはじめたので、なにをトッピングするかまでは、まったく考えてなかった。
今さらチョコレートケーキなんてできないし、それだったらいろいろバリエーションを作れる、タルト生地にしとけばよかったかも。

「タルトか…」

そう言えば、去年の秋。
わたしがまだ、川島君と再会したばかりの頃、みっことはじめて恋話をしたのは、『森のしらべ』だったな。
あのときわたしは『タルトモンブラン』を頼んで、みっこは『ティラミス』を注文した。

『そういえばあたしね。学校の帰りに喫茶店とかケーキ屋さんに、友達と寄っておしゃべりするのに、ずっと憧れてたの』

みっこは意味ありげに、そんなことを言ってたな。
その頃のわたしは、まだ彼女のことをよく知らなかったから、こんなに綺麗な女の子に、どうして彼氏や友だちがいないんだろうと、不思議でならなかった。
あの頃はそうやって、みっこと少しずつ仲良くなっていくのが、とっても嬉しかった。
彼女のことも、いろいろと推理して、その華やかな容姿の裏側にある、ほんとの森田美湖を見つけようと、やっきになってたっけ。

そうね。
去年の秋は、本当にいろんなことがあったな。
今振り返ってみると、み〜んな、いい思い出。

あれは…
去年の10月はじめ、九州文化センターでの小説講座がはじまった、最初の日だった。

高校時代に好きだった川島君と、帰りの本屋で偶然再会して、『紅茶貴族』でお茶しながら、はじめてふたりっきりで、ゆっくりと話したんだった。
それまで男の人と、まともに話したこともなかったわたしには、はじめてのできごとばかりで、家に帰り着くまで、足がふわふわと宙に浮いているほど、夢見心地なひとときだった。
それからは、川島君とは少しずつ親しくなっていって、彼が主催している同人誌にも参加することになったっけ。
だけど、川島君と蘭(あららぎ)恵美さんがつきあっていると誤解していたわたしは、同人誌の仲間に彼女がいることに動揺してしまって、お互いのちょっとした気持ちのすれ違いから、わたしと川島君の仲はぎくしゃくしてしまい、もう二度と会わない決心までしたことあったっけ。
川島君に電話をかけて、別れを伝えたあと、みっこと夕方の港を歩いて、彼女に元気づけてもらったこともあった。
あのときみっこが、ささやくように歌ってくれた『元気をだして』が、耳を澄ませば、今でも聴こえてくるような気さえする。

あの頃は楽しかった。
片想いと思っていた間は、確かに辛かったけど、こうして川島君と恋人同士になってしまうと、それらはみ〜んな、つきあいはじめるまでのプロローグみたいで、どれも素敵な思い出に感じられる。

焼き上がったスポンジケーキを見つめながら、わたしはそうやって、もう変わることのない過去の綺麗な思い出を、何度も何度も心の宝箱から取り出しては、眺めて浸っていた。
人間って、辛いことがあると、過去のよかった想い出にすがりたくなるのかもしれない。

あれから1年…

わたしはどう変わったんだろう?
幸運にも、川島君とは恋人同士になれた。
みっことも、いろんなことを話せる、心からの親友になれた。
だけど、今のわたしは、あの頃に持っていた、些細なできごとに対する感動… デリカシーを、失くしてしまったのかもしれない。
川島君と『おとなの階段』を登って、彼に愛されることに慣れてしまったわたしは、そんな彼の気持ちを逆手にとって、ずいぶんワガママを言うようになった。
あんなに大好きでたまらなかった川島君を、自分のワガママで振り回し、時には彼に対して、不満を持つことさえある。
こうして過去を振り返ってみると、いろんな大切なものを、わたしはあちこちに置き忘れてきてるような気がする。

わたしはこの一年で、たくさんの大事なものを失くしてしまったの?
それ以上に、もっと大切なものを、本当に手に入れることができているの?

川島君は、雑誌のフォトコンテストで金賞をとり、夏休みには東京で、一流の写真家のもとでバイトをして、評価されて、小説コンクールでも佳作に入って、一歩一歩確実に、自分の夢を実現している。
みっこも、藍沢さんへの想いを吹っ切り、アルディア化粧品のキャンペーンガールをはじめとして、テレビや雑誌で、モデルとして活躍しはじめている。
ふたりはどんどん先に進んでいく。
わたしはいつも立ち止まり、こうやって過去を振り返って、思い出に浸ってばかり。
なんだかふたりに、置いていかれてるような気がする。
わたしがこのまま、なにもしないでいると、川島君もみっこも、どんどんわたしから遠ざかってしまう。
だけどわたしには、どうしていいのかわからない。
出口が見えない。

「ふふ」

冷めてきたスポンジケーキを前にして、わたしは思い出し笑いをしてしまった。
そういえば、去年のみっこが、ちょうどこんな感じだったな。

『あたし… 今はまだ、なんにも見えない』

そう言って彼女は、心を閉ざしてしまい、ずいぶんわたしを悩ませた。
今のわたしって、あの頃のみっこと同じ気持ちなのかなぁ?

それはまるで螺旋階段。
終わらないゲームのよう。
前に見た景色を、こうやってまた繰り返し、眺めている。

 

 そんなことをとりとめもなく考えているうちに、わたしはケーキに塗るクリームやトッピングのフルーツがないことに気がつく。このままじゃあ、いつまでたってもケーキづくりは進まない。仕方ないので、スポンジの熱がとれる間に、近所のスーパーにでも買い物に行こうと、わたしは外出の支度をした。

RRRRR… RRRRR… RR…

玄関に出たとたん、目の前の電話が鳴った。
仕方なくわたしは受話器をとる。

「はい。弥生ですけど」
「あ。さつき?」

電話は森田美湖からだった。

「さっきも電話したのに、コールバックしてくれなかったのね」
「あ、ごめん。ちょっと手が離せなくて」
「いいんだけど… 昨日『リハ見に来る』って言ってたのに、さつき来ないから心配になって、電話してみたのよ」
「ごめん。ちょっと、急用が入っちゃって、行けなくなったの」
「そう… 残念」
「あっ。わたし、今から出かける所だから」
「そうなの?」
「うん、ちょっと買い物に。ごめんね」
「…ううん。あたしこそ、いきなり電話しちゃって、ごめんね。またゆっくり、話ししようね。いろいろ相談したいこともあるし」
「そうね。じゃあ」
「…じゃあね」

よそよそしく電話を切って、わたしは買い物に出かけた。
トーンの下がった声のニュアンスから、みっこにはもう伝わっただろな。
わたしが彼女のこと、なんとなく避けてるのが。

もちろんわたしは、みっこのことが大好き。
いちばんの親友だと思っている。
だけど今は、彼女に対していろんなコンプレックスや嫉妬があって、まともに話せない。

みっこが、川島君の卒業展のモデルをした。

彼女の実力や容姿からすれば、それはなんの不思議もないことだけど、やっぱり、彼女が選ばれたことに嫉妬し、不安になってしまう。
川島祐二にとって、わたしは『恋人』ではあっても、『モデル』としての価値はないってこと。
そして、そんないきさつを、彼女から言ってもらえなかったことで、余計に寂しさと悔しさが募ってくる。
親友なのに、なんだか裏切られた気分。

 買い物の間中、そんな想いがエンドレスで、頭の中をグルグルまわり続けた。
こんなもやもやした気持ちでいるから、買い物から帰ってもしばらくはなにもする気がおこらず、わたしはベッドに転がったまま、ダラダラした時間を過ごてしまった。
ようやくケーキづくりにとりかかったのは、夕食も終わって、すっかり日も暮れてしまった頃。
母から『邪魔になるから、出しっ放しのケーキ道具をなんとかしなさい』と急かされて、わたしはようやく重い腰を上げ、ケーキづくりを再開させた。

生クリームをハンドミキサーで、軽く角が立つくらいに泡立てる。
そのクリームを、スポンジの表面にナッペしていき、残りのクリームは絞り出し袋に入れて、スポンジの上に形よく絞り出していく。
買ってきたフルーツは、ゼラチンにシロップを混ぜたものでコーティングし、配色を考えながら、スポンジの上に盛っていく。
ちょっと大人な味にしたかったので、シロップにはリキュールを多めに入れてみた。
地味なスポンジづくりと違って、ナッペとデコレーションは、ケーキづくりでいちばん楽しい作業。
わたしはさっきまでの悶々とした気分も忘れて、ケーキづくりに没頭していった。


「よし。できあがり!」

そう言って、思わず笑みがこぼれる。
今日のケーキはラズベリーとブルーベリー、グレープフルーツやキーウィをたっぷり使った、フルーツデコレーションケーキ。
生クリームはちょうどいいやわらかさで、絞り出した形も綺麗だし、フルーツもシロップでつややかに輝いて、おいしそう。
我ながらいい出来で、思わずほっこり、顔がほころんでしまった。
とそのとき、電話のベルが鳴り、
「さつき〜電話よ。森田さんから」
と、お姉ちゃんが玄関から、わたしを大声で呼ぶ声がした。

「もしもし?」
「さつき…」
電話に出てみると、みっこの沈んだ声。
「何回もごめんね。さつき、今は時間、大丈夫?」
「うん。大丈夫だけど」
「あたし、今、さつきん家(ち)の近くの公園の、公衆電話からかけてるの。来られる?」
「えっ? 今から?」
「無理そうならいいわ。もう帰るから」
「ううん。さっきまでケーキ作ってて、ちょうど完成したところなの。今から着替えて、10分くらいで行けるけど」
わたしがそう答えると、みっこは少し安堵したような声になった。
「うん、待ってる。ごめんね。いきなり呼び出して」

手近にあったワンピースに着替えて、わたしは急いで公園に向かった。
いったいどうしたんだろう?
みっこの声は、なんだか物思いに耽るように、重く、沈んでいた。
なにか悩みでもあるんだろう?

 

 秋の長い夜は、はじまったばかり。街角の街灯が、わずかに群青色の残る空で光を放っている。
わたしはすっかり暗くなった公園に着くと、あたりを見回した。
街灯が公園の所々を照らしているものの、薮の奥や木陰はもう真っ暗で、よく見えない。
こうして夜の公園を歩いていると、どうしても過去の幻影がよぎる。
そう。
この公園は、川島君が家まで送ってくれるときに、時々寄っていくところ。
ベンチに座ったり、ブランコに揺られたりしながら、わたしはこの暗がりで川島君とキスをしたり、抱きあったりしたっけ。
そんなまぼろしが、一瞬、オレンジ色のナトリウム灯の下に見えた気がした。

 みっこは公園の隅のブランコに座り、ゆらゆらとわずかにブランコを揺らしながら、淋しそうにうつむいていた。
わたしが見つけて近寄っていくと、彼女は顔を上げて、パッと花が咲いたように、嬉しそうな顔で迎えてくれる。
たまらないな。
みっこのこの微笑みには、やっぱり人を惹きつける魅力がある。
それは、作られた微笑みなんかじゃなく、純粋に、好意の感情から溢れ出した笑顔だからかなぁ。

「ごめん。待たせちゃって」
わたしはみっこのそばに駆け寄って言った。彼女は恥じらうように微笑みながら、ブランコを揺らす。
「ううん。こっちこそごめんね。こんな夜に呼び出したりしちゃって」
「いいのよ」
「あたし、ブランコなんて、久し振りに乗っちゃった。なんだか子供の頃に戻ったみたい」
「あは。そうかもね」
「あの頃はよかったな」
「あの頃?」
「まだ幼かった頃。
そのときは必死に悩んでたことでも、今考えたらどうでもいいような、ほんのちっぽけなことだった。そんな風に、今悩んでることも、いつかは笑って、思い出せるようになるのかなぁ」
「どうしたの? 急に」
「ううん… 直接ね。さつきの顔を見て、話したくて」
「え? なにを?」
みっこはブランコを揺らすのをやめ、じっとわたしの瞳を見つめて言う。

「あたし、さつきに謝らなきゃいけないことがあるの」
「謝る?」
わたしは訝しげに訊き返す。花のような笑顔から一転して、思いつめた表情になり、みっこは少し沈黙したあと、覚悟を決めたように、告白した。

「あたし、先週、川島君のモデルをして、長崎に行ったのよ」

しばしの沈黙が、ふたりの間に流れる。
わたしの脳裏をいろんな想いが駆け巡り、なんと応えようか迷ったが、ひとことだけ、言った。

「……知ってる」
「えっ? どうして?」
『まさか』というように驚いて、みっこは訊き返す。わたしは説明した。

「昨日、『みっこと川島君らしい人を、長崎で見た』って女の子の話を、偶然聞いちゃったの。そのあとで川島君に訊いてみたら、『行ったよ』って言ってたから」
「…そう。それでさつきは… 川島君とはなんともないの?」
「なんともないって?」
「勝手にさつきの許可も得ないで、あたしが川島君のモデルなんかしちゃったから…」
「わたしの許可なんて、いらないでしょ」
「でも、川島君は、さつきの彼氏だから…」
「別に、『デート』ってわけじゃなかったんでしょ? だったら恋人とか彼氏とか、関係ないんじゃない?」
「さつきは気にならないの?」
「そりゃ、気になるわよ。わたしになにも言ってくれなかったのも腹が立つけど。
でも、しかたないじゃない。
川島君はみっことは、『モデルとカメラマンとして、きっちりやっていける』って言ってたし、そうまで言われたら、わたしとしては、その言葉を信じるしかないし」
「…そう」

みっこはつぶやくように言うと、真意を測るかのように、じっとわたしの瞳の奥をのぞきこむ。
せっかく、忘れようとしていたのに…
昼間の悶々とした想いが、またもや心の奥底から込みあげてくるのを感じて、わたしの胸は締めつけられるように、苦しくなってきた。

昨日の夜、川島君に電話をして、みっこと長崎に行ったことを聞き出したばかりだというのに、今日みっこが急に、そのことをわたしに打ち明けるのは、なんだかタイミングがよすぎない?
まるで、川島君とみっこが裏で連絡とりあっていて、ふたりで示し合わせて、その上でみっこが、わたしの様子を探りにきているんじゃないかと、疑わざるをえないじゃない。
そんなことをするほど、川島祐二と森田美湖は、親しいの?
そんなことをしなきゃいけないほど、ふたりはわたしに、隠しておきたいことでもあるの?

せっかくケーキづくりが上手くいって、気分もちょっと上向きになってきたっていうのに、また鬱々とした重たい気分に逆戻り。
みっこと話しながら、わたしは少しずつ鬱憤がたまって声が沈んでいき、彼女に対する受け応えの口調も、冷めたものになっていった。そんなわたしの気も知らないで、みっこは明るい口調で言う。

「そうね。あたしもね。川島君とは、『モデルとカメラマン』として、けじめつけて、つきあって行けると思うわ」
「みっこ、これからも川島君のモデルするつもり?」
「え?」
わたしの言葉に、みっこは一瞬、うろたえた。
「またふたりでどこかに行って、写真撮ったりするの? わたしにないしょで」
「そんなこと… さつきが『ダメ』って言ったら、もう川島君とは、会わないわ」
「それじゃまるでわたしが、『川島君のモデルをしないで』って、言ってるみたいじゃない」
「そういうわけじゃ…」
「蘭(あららぎ)さんのときもそうだったけど、『モデルとは恋愛感情抜きでつきあう』って、川島君は言ってるのよ。なのに、そんな理由でみっこが川島君のモデルをやめたら、わたしが悪者みたいじゃない」
「悪者なんてことはないわよ。じゃあ、川島君のモデルをするときは、さつきといっしょに行くようにすれば、いいんじゃない?」
「別に… ふたりで行ってもいいわよ。どうせわたし、邪魔だし」
「…さつき」
「なんかもう、疲れちゃった」
「…」
「今朝、川島君から電話があったけど、わたし居留守使っちゃったのよね。なんだか、今は川島君とは、なにもしゃべりたくないの」
「さつき… 川島君と、うまくいってないの?」
みっこは不安そうに、わたしに訊ねた。

なに?
その白々しい言葉は。
『うまくいってない』のは、みっこのせいじゃない。

怒りに近い感情が、ふつふつとわき上がってきて、わたしは突っけんどんに答えた。
「…うまくいってないみたい」
「ほんとに?」
「…みっことも、うまくいってないみたいよ。今は」
「…」

わたしの冷たい言葉に、彼女は肩を落とし、しょげかえったみたい。
『生意気でわがままな小娘』の森田美湖なら、こうやってひどいことを言われても、ひるまないはずなんだけど、今はわたしへの罪悪感のためか、彼女はなにも言い返してこない。
それをいいことに、わたしは追い討ちをかけるように言い放つ。今までの鬱憤を、みんなみっこにぶつけるように。

「みっこ。川島君のこと、好きなんじゃない?」
「え? どうしてそう思うの?」
「なんとなく、そう感じるのよ」
「別に、そんなこと…」
「ないっていうの? でもみっこは、あなたが好きになった人のこと、全然言ってくれないじゃない? わたしいろいろ考えたんだけど、それって、相手が川島君だから、わたしに言えないんじゃないの?」
「そんな… 違うわ」
「ほんとに?」
「…ええ」
「じゃあ、みっこの好きな人って、だれなのよ?」
「………」
「なにも言ってくれないのね」
「え?」
「みっこも川島君も、なんにも言ってくれない。
わたしがどんなに傷ついて、悩んだかわかる?
みっこにも川島君にも、裏切られたみたいで、それでわたしがふたりのこと疑うのは、当たり前じゃない。もう、いい加減にしてって感じよね」
「…ごめん」
「あやまってもらわなくていい」
「…」
「じゃあ、わたし。もう帰るから」
「 っあたしが…」
そう言って背中を向けたわたしに、みっこは反射的に声をかけた。訝しげにわたしは、彼女を振り返る。

「…あたしが、好きなのは…」
「え?」
「あたしが好きなのは………   文哉さん」

消え入りそうな声で、みっこはそう告白した。

…意外。
あれほどかたくなに口を閉ざしていたみっこが、いきなりそれを言うなんて。
しかも相手は予想どおりというか、望んだとおりというか…
とにかく、川島君じゃなかった。

「文哉さんって… 藤村文哉さん?」
「ええ」
「プロデューサーの?」
「そう」
「藤村さんって…」
「そう。結婚してる。だから… さつきにも言いづらかったの」
「わたし… モルディブで、みっこと藤村さんが、夜、外にいるのを見たわ」
「えっ?!」
わたしがそう言うと、みっこは目を丸くして、大袈裟な反応を見せた。
「実はあの夜、わたしと川島君も夜の海で泳いでいて、わたしたちが帰るとき、藤村さんとみっこがホテルから出てくるのが、遠くからチラッと見えたのよ」
彼女の過敏な反応から、わたしが見たことを全部話してしまうのは、やっぱりまずいと思い、適当にボカして、わたしはみっこに言った。
「そ、そう…」
秘密を見られなかったことに安堵したのか、彼女はほっと胸を撫で下ろした。わたしはカマをかけてみた。
「あのあと、みっこと藤村さんは、どこかに行ったの?」
「ええ… その辺でちょっとおしゃべりして、しばらくふたりで、夜の海を見てたの」
「それだけ?」
「ええ」
「ふ〜ん…」

みっこはわたしに、嘘をついた。
なんだかショック。

確かに厳密には、それは『嘘』とは違うかもしれない。
それは彼女お得意の、『嘘をついてるわけじゃないけど、ほんとのことも言ってない』っていう、はぐらし方。
そりゃあ、『藤村さんと夜の海を見てエッチした』なんて、なかなか言えることじゃないのはわかるけど、わたしたちは『親友』なんだから、彼女の口から、本当のことを打ち明けてほしかった。
なんとなく、奥歯にものがはさまったようなじれったさが残り、わたしの口調も辛辣になってくる。

「これから、みっこは藤村さんと、どうするつもり?」
「前にも言ったわ。『見込みはない』って」
「みっこはそれでいいの?」
「よくはないけど…」
「じゃあ、奪っちゃえば? 『恋と戦争は手段を選ばない』なんていうじゃない」
「相手の女(ひと)の気持ちを考えると、そんなこと、できない」
「どうしてそんなに、いい子ぶるの?」
「そんな… いい子ぶってるわけじゃないわ」
「だったら、そんな八方塞がりの恋なんて、もうやめちゃえばいいのに。不毛じゃない」
「不毛だなんて… ひどい!」
「素直な感想言っただけよ。男なんていくらでもいるんだから、みっこもさっさと新しい恋探せばいいのよ。みっこなら簡単じゃない」

その言葉で火がついたように、みっこは口をとがらせる。
「そんな簡単に言わないでよ。そうできるんだったら、あたしだってそうしたいわよ!」
感情を昂らせ、切羽詰まった顔で、彼女は一気に話しはじめた。

「そうしたいわよ! でもダメ。理性とはうらはらに、彼のこと、どんどん好きになっちゃって。
手に入れられない人だって… 入れちゃいけない人だって思うと、逆に想いが募ってきて、苦しいのよ。
会う度に、伝えたくなるこの気持ちを呑み込んで、胸がつかえて苦しくて、泣き出してしまいそうになるのを必死に抑えて、ふつうに接しているしかないのよ。
いっしょにどこかに行っても、いっしょになにかをしていても、ずっと相手の女(ひと)の影を、彼の隣にどうしても見ちゃって、申し訳ない気持ちと、罪悪感でいっぱいになって、何度も『もう会うまい』って心に決めるんだけど、それでも会えない苦しさの方が辛くて、他のなにでもその気持ちは埋められないのよ。
どうしようもないの。
どうしようもないのよ!」

溜まりに溜まった心のつかえを一気に出し終えると、みっこはその場にしゃがみ込み、ひざに顔を埋めて肩を震わせた。

「…」
わたしは黙ったまま、しゃがみこんでいるみっこの側に、立っていた。

ううん。
なにも言えなかった。

『みっこは川島君のことが好き』
だなんて、疑っていた自分が、情けない。
みっこはこんなにも辛い気持ちでいたのに、自分のことしか考えられなかったわたしが、恥ずかしい。

「…ごめん」
わたしはそう言って、みっこの隣にしゃがみ込む。
彼女の肩におそるおそる、指を触れる。
かすかに震える、細い肩。
彼女はなにも言わず、ただ、両腕を抱えて、顔を伏せたままだった。
わたしもそんなみっこを、ただ黙って見ているしかなかった。

そう…
まるで、去年のみっこの誕生日に、『Moulin Rouge』のドレッシングルームで泣いていたみっこを、なにもできずに見守っていたときのように。
それは、わたしには入ることのできない、みっこだけの心のテリトリー。

 

 いったいどのくらい、そうしていただろう?

「…ごめん。さつき」
かすかな嗚咽のあと、ため息のように、みっこはつぶやいた。
「わたしの方こそ… なにも知らないでひどいことばかり言って。ごめん」
「…」
わたしの言葉が聞こえているのかいないのか、みっこはバッグからハンカチを取り出すと、わたしに背を向けて、黙って目頭に押し当てた。
「見ないでさつき。あたし、ひどい顔してる」
「いいよ、泣いたって」
「恥ずかしい」
みっこはそう言って、すっくと立ち上がり、顔を背けたまま言った。
「あたし、もう、帰るね。今日はわざわざありがとう。じゃあ、おやすみ」
そう言ってみっこは足早に歩きはじめる。

え?
なに、この中途半端な別れ。
こんなんじゃ、すっきりしない。
いてもたってもいられない気持ちで、わたしは彼女の背中に、思わず声をかけた。

「みっこ! あなたにあげたいものがあるの」

わたしの言葉に反応し、みっこは何歩か歩いたあと、背中を向けたまま立ち止まった。
「ちょっと待ってて。すぐ家から持って来るから」
後ろ姿の彼女の頭が、かすかに下がる。
うなずいたのよね。

「待っててね。すぐ戻って来るから。どこにも行かないでね! 絶対よ!」
このままじゃ、みっこはわたしの前から消えていなくなってしまいそう。
そんな不安で、わたしは重ねて念を押して、公園を駆け出した。

 

 わたしは走った。

みっこと川島君のこと。
みっこの好きな人。
わたしの誤解。

モルディブから帰ってきて以来、わたしのなかで渦を巻いていたいろんな想いが、今夜のみっこの告白で、いっしょくたになって、混ざりあい、心を揺さぶる。
そんな濁った感情を振り払うかのように、わたしは夜の住宅街をひたすら走っていった。

『みっこにあげたいもの』って、別にそんなものはなかった。
ただ、彼女になにかしてあげたくて。
みっこを元気づけてあげたくて、咄嗟に口に出た言葉だった。

 わたしは家に駆け込むと、反射的に冷蔵庫を開け、できあがったばかりのケーキをガラスのケーキケースに入れ、それをトートバッグに詰めると再び家を飛び出し、できるだけ揺らさないように、でもできるだけ早く、みっこの待つ公園に戻った。



「お待たせ、みっこ」

彼女は、いた。

さっきまでの場所にはいなかったので、一瞬焦ったけど、夕方会ったときのように、みっこはブランコに座って、わずかに揺らしながら、うつむいていた。
わたしは彼女がまだ公園にいてくれたことに、ほっと安心し、できるだけ明るく彼女の側に歩み寄る。
わたしを待っている間に、みっこも少しは気分が落ち着いたらしく、わたしに気がつくと立ち上がり、ちょっとぎこちなく、わたしをおそるおそる見返した。

「はい、これ」
わたしはトートバッグを差し出した。
「なあに? これ」
みっこはトートバッグを見つめて、訝しげに訊ねる。
「今日作ったケーキ。これ、みっこにあげる」
「え? いいの? でも…」
「いいのよ、気にしないで。どうせ気晴らしに作ったものだから、みっこが食べてくれると嬉しいから」
「ほんとに? ありがとう。嬉しい」
大事そうにトートバッグを受け取ったみっこは中を覗き込み、その瞬間、花が咲いたように明るい表情になる。

「わあ、美味しそう! すごく綺麗ね!」
「うん。久々の会心作なのよ」
「そんな… ほんとにもらってもいいの?」
「だから、いいんだって」
みっこはちょっと思案するように首をかしげたが、ふと、思いついたように言った。
「ね。ここでいっしょにこのケーキ、食べましょ」
「え? ここで?」
「ええ。会心のケーキだったら、さつきだって食べたいでしょうし。あたしもいっしょに食べたいし」
「でも、フォークとか、お皿とかないし」
「ちょっと待ってて。向かいのコンビニで買って来るから。あ、これ持ってて」
彼女はそう言うと、わたしの返事も待たず、トートバッグをわたしに預けて、煌々とあかりの灯っている公園前のコンビニに、駆けていった。

「はい。お待たせ。せっかくだから『午後の紅茶』も買ってきちゃった。やっぱりケーキにお茶はつきものよね」
コンビニから戻ったみっこは、そう言いながら近くのベンチに座り、トートバッグからケーキケースを大事そうに取り出す。
「なんだかもったいないわね。こんな可愛いケーキを、こんなとこで食べちゃうなんて。ナイフ入れてもいい?」
「もちろん、いいわよ」
みっこはクスッと笑いながら、コンビニで買ってきたプラスチックのナイフでケーキを切り分け、紙のお皿に載せる。

「いただきま〜す」
そう言って手を合わせ、彼女はケーキを頬張る。
「ん。おししい! やっぱりさつきは、お菓子づくりの天才ね!」
もぐもぐさせた口に手を当てながら、みっこはわたしのケーキを褒めてくれた。
ナトリウム灯のオレンジ色の光が、みっこを背中から照らし、その表情は影になってよく見えないけど、彼女の声は明るかった。
さっきまではあんなに激しく動揺していた彼女だったけど、ようやくふだんのみっこに戻れたのかな。

 みっこは無言のまま、フォークを口に運ぶ。
わたしも彼女の隣に座り、いっしょにケーキを食べた。
わたしの計算どおり、今回のケーキは、リキュールがフルーツの香りを引き立てて、ちょっぴり大人の雰囲気を醸し出し、フルーツ同士の甘さと酸味のハーモニーも抜群。スポンジもふんわりと軽く、ちょっと減らした砂糖の加減も、ちょうどいい感じ。
見栄えだけじゃなく、味も会心の出来に、わたしは満足していた。

“スッ”

隣で黙ってケーキを食べていたみっこは、かすかに鼻をすすった。
寒いのかな?
その音で、わたしはなに気なく、みっこの方を見た。
膝の上の、ケーキを乗せた紙のお皿には、染みができていて、添えてあった手に、ポトリと一粒、雫が落ちて、はじけた。

「みっこ?」
「ん? おいしいよ。さつき」
「どうしたの?」

よく見ると、みっこの瞳には、こぼれんばかりの涙が、いっぱいに溢れている。
わたしを振り向き、まばたきをした拍子に、その涙のひとしずくが、長い下睫毛を伝って、夜露のようにこぼれ落ちる。
なのに彼女は、わたしを見つめて微笑み、美味しそうにケーキを頬張っている。

「ごめん、さつき。あんまり美味しいんで、なんか涙が出てきちゃった。おかしいよね」
そう言って笑い、涙をこぼしながら、みっこはケーキを食べた。
「い… いったいどうしちゃったの?」
「なんでもない。なんでもないから… ありがと、さつき。あたし、あなたのこと、一生忘れない。一生親友でいたいから」

みっこはうわごとのように、そんな言葉をつぶやき、ケーキを食べた。

 わたしと同じように、みっこも辛い想いを、ケーキといっしょに味わっているのかもしれない。
わたしには、奥さんのいる人に恋する辛さなんて、ほとんど想像もつかない。
『蘭さんと川島君がつきあってる』と思っていたときは、わたしも胸を掻きむしられるように辛かったけど、みっこは今この瞬間も、それ以上の辛さを味わっているんだろうな。
そんな辛い気持ちをだれにも言えず、森田美湖はずっとひとりで耐えていたんだろうと、さっきの取り乱した彼女を見て、痛いほど感じる。

親友として、わたしはそんな彼女に、なにかしてあげたい。
少しでも、彼女の気持ちの慰めになってあげたい。

 

友情なんて、このケーキといっしょかもしれない。
放っておいたら、ボソボソに固くなって、干からびてしまって腐れ、ヒビが入っていく。
友情にはレシピなんてないけれど、『なにかしてあげたい』って気持ちさえあれば、ずっと美味しいままでいられるはず
泣きながらケーキを食べる彼女を横目で見ながら、わたしは心からそう思っていた。

 

『あなたのこと、一生忘れない。一生親友でいたいから』

それはわたしも、同じ思い。
みっことはずっと親友でいたい。

 

 

そしてわたしは、あとになって、森田美湖のその言葉と涙に込められた、もっと深い意味を、痛いほど知ることになった。

END

27th Sep. 2012

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