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Love Affair


 金曜日の講義は午前中までで、そのあとは先月みっこと約束したとおり、駅の西口で待ち合わせ。
午後になってちらほらと降りだした雪を、コートに首をすくめてやり過ごしながら,駅前の雑踏の中で、わたしはみっこたちと川島君を待っていた。
 12月に入ってクリスマスやお正月が近くなると、人も街も、なんだかあわただしくなってくる。
目の前を急ぎ足の人が、せわしなく通り過ぎていき、いつもより速いスピードで、大通りをクルマが流れていく。

「さつき〜。お待たせ」
そんな人ごみの中から、いつも学校に来てくる真っ赤なケープのハーフコートを羽織って、ギンガムチェックのマフラーを巻いたみっこが現れて、元気よくわたしに近づいてきた。
「あれ? みっこ今日は、『すっごいカッコしてくる』って言ってたわりには、いつものハーフコートじゃない?」
「あんまりすごすぎて、コートで隠しとかないと、街なかじゃ恥ずかしいのよ」
みっこの言葉に、わたしは思わず彼女の全身をチェックした。太ももまでしかないハーフコートの下は黒のストッキングなので、ミニ丈の服なのは間違いないけど。
「すごすぎって…」
「さつき、見たい?」
「う… うん」
「ダメ。あ、と、で」
そう言って、みっこはわざとらしくコートの襟をぎゅっと締め、挑発的な笑みを浮かべた。なんかいきなり、いじられているような気がするなぁ。
「さつきもいい感じじゃない」
みっこが『おしゃれしてきて』って言うから、わたしも今日は、とっておきのワンピースを着てきた。ドルマンスリーブでローズピンクの、ローウエストのワンピース。
「こんなカッコでよかったのかなぁ?」
「ええ。さつきらしくって、いいわよ。ストッキングもラメとか入ってて、いつもより派手めだしね」
「ふつうのストッキングじゃ地味な気がして… ここに来る前に駅のデパートで買って、履き替えたのよ」
「さつき、やる気満々じゃない」
「そ、そんなこと…」
「あはは。いいわよ。今夜は楽しもうね!」
みっこはそう言いながら、わたしの肩に腕をまわして笑う。
なんだかドキドキしてきたわ。はじめてのディスコ。

 そうしているうちに川島君がやって来た。川島君も今日はカジュアルなネクタイにベストを着てて、いつものデートより少しはきらびやかな格好。彼は微笑みながらわたしの方に近づいてきたが、みっこを見て『あっ』といった表情を見せた。
「さつきちゃん待った? 遅くなって。そちらが…」
「あ。彼女がわたしの友だちの森田さん」
「そうか。あの、森田さんか」
川島君はそう言いながら笑う。みっこはわたしをつついて小声で言った。
「さつき。『あの』ってなんなの? あなた、あたしのこと、なんて言ってるの?」
「心配しなくても褒めてるわよ」
「ふうん?」
みっこはそう返事をしながら、川島君に右手を差し出し、挨拶した。
「はじめまして。あたしが『あの』森田美湖です。よろしく」
「え… あ、川島です。よろしく」
彼はあわててポケットから手を出し、ドギマギとした感じで会釈する。そんな川島君を見ながらみっこはニッコリ微笑み、川島君も照れを隠すように微笑んだ。

「おっ。みっこ、待ったか?」
そうしているところに、背の高い細身の男の人が声をかけてきた。
「芳賀修二くんよ」
みっこは彼に軽く手を振って挨拶すると、わたしたちを振り返り、その男性を紹介した。『芳賀修二くん』は無愛想に、わたしたちにペコリとうなずいてみせた。
ええっ? これがみっこの『彼氏』なの?
いかにも『スノッブ』といった感じの芳賀さんは、背が高くてスタイルもよく、鼻筋が通っていて目がくぼみんだ洋風な顔立ちで、かなりのハンサム。
皮のジャケットにピチピチの黒のスウェードパンツ。腰にはジャラジャラとチェーンがついていて、耳には銀のピアス。確かにカッコいいんだけど、わたしの思い描いていた『みっこの恋人』とはなにか違ってて、ふたりが並んでいるさまも、どこかしっくりこない。
「みっこ。今日はどこに行くんだ?」
芳賀さんはそう言うと、みっこの肩に軽く手を回す。その様子はなんかチャラくて、あんまり好きになれない。みっこにはもっとおとなびた、落ち着いた感じの人の方が似合うと思うんだけどな。
「Moulin Rougeよ」
芳賀さんの手をやんわり払いのけながら、みっこは言った。

 …ったく。ディスコっていうのは、すごいところ。
チケットを渡して薄暗い店内に入ったところから、もう単調な低音のリズムが地を這うように響いていて、ホールの扉を開けると、それがいきなり爆音になり、赤や緑のレーザービームが激しくまたたき、おなかをグーで殴られるようなものすごいサウンドが、壁一面の大きなスピーカーから吼えるように、わたしたちに襲いかかってくる。
片方の壁はテレビのモニターでびっしりと埋め尽くされ、それぞれわけのわからないイメージ画像を映し出していて、目をチカチカさせる。
吹き抜けの高い天井では、SF映画に出てくるようなグロテスクな形をしたライトとミラーが、まるで生き物のように、激しくアップダウンや回転を繰り返している。
ひときわ高くなったステージの上では、テレビで見たことがあるようなボディコンの女の子たちが、扇子を手に持って激しくからだをくねらせ、その下には、彼女たちを崇めるように男たちが取り巻き、そこから発散される汗とフェロモンと化粧の匂いで、人いきれしてしまいそう。
ひとことで言えば、男と女の欲望を呑み込んだ怪物が、唸りを上げて地の底から這い出してきたみたいな感じで、その迫力にわたしと川島君は、まずは圧倒されてしまった。

「あそこのボックスが空いてるわ。行くわよさつき」
そう言って上手に人ごみを縫いながら、みっこは戸惑っているわたしの手をとって、奥のボックスシートへ向かう。
「ちぇっ。やっぱり金夜(きんよる)は人が多いぜ」
芳賀さんが踊っている人と肩をぶつけながら、そう舌打ちした。

「じゃ〜ん」
みっこはボックスシートにたどり着くと、そう言いながら羽織っていたハーフコートを脱いだ。
からだにぴっちり張りついた真っ赤なミニのホルダーネックのドレスは、ヴァージスラインまで襟ぐりが開いていて、下につけている黒のブラジャーがあらわになって、ふくらみを強調している。バルーン状になったドレスの裾からは、これまた黒いガーターベルトのストラップが出ていて、太ももでストッキングを止めている。
う〜ん。これは悩ましい。川島君なんて、目のやり場に困ってるじゃない。
「み、みっこ。ブラ見えてるけど…」
「これは見せブラよ」
「おお。みっこ。今日はなかなかセクシーだな」
「せっかくのディスコだもの。だれにも負けたくないしね」
「いったいだれと張り合ってるの?」
「世界中の女… なんてね。さあ、さつき。食べ物取りに行こ!」
そんな軽口を叩きながら、わたしたちはフーズコーナーを往復し、さっそくテーブルの上にポテトやミートパイ、スナック類にジュース、アルコールなんかを、ずらりと並べた。
男性3,500円、女性2,500円で食べ放題ってのは、嬉しい。

「みっこ、チューハイ作れよ。乾杯しようぜ」
芳賀さんがそう言いながら、グラスに氷を入れる。
「え〜。あたしそんなの、作ったことないわ。ごめんね芳賀くん」
みっこはそう言ってボトルを取ろうともしないので、代わりにわたしが手を伸ばした。
「お父さんの晩酌によくチューハイとか作ってるから、わたしがするわよ。レモンサワーでいい?」
「わぁ。ありがとさつき」
「お。さつきちゃん、なかなか家庭的だな」
川島君がグラスにアップルサイダーを注ぎながら言う。
「みんなの愛に、乾杯」
ドリンクが揃ったところで、みっこはそう言って、ペロリと舌を出した。

「ところでみっこ、今日はどうしてダブルデートなんて言い出したの?」
グラスに口づけながら、わたしはみっこに聞いた。
「ん。今日はあたしの誕生日なの? だからディスコパーティってわけ」
「ええっ! みっこの誕生日? やだ。どうして言ってくれなかったのよ。わたしプレゼントとか、なにも用意してないのに」
そう言いながら、わたしは自分の誕生日のことを思い出した。
みっこはわたしの誕生日を覚えてくれてて、ワンピースをプレゼントしてくれたっけ。なんだか悪いことしちゃったな。
「いいのいいの。みんなで集まって騒ぐのが、いちばんのプレゼントなんだから」
「俺は持ってきたぜ。ほら」
芳賀さんはそう言いながら、得意げにピンクのリボンのかかった小箱を、みっこに差し出す。
「ありがと… あ。きれいね。嬉しいわ」
小箱を受け取ったみっこは、その場でプレゼントを開き、箱から取り出した素敵な銀の指輪を、確認するかのように指にはめてみる。
「19歳の誕生日に男から銀の指輪をもらえば、幸せになれるって言うだろ」
やさしく微笑みながら、芳賀さんは言った。案外ロマンティックな人なんだな。
みっこは指輪を小箱に仕舞いながら、ちょっと茶化す様に言う。
「だけど指輪なんて、意味深なプレゼントね」
「ダメか?」
「ううん。芳賀くんがあたしの幸せを願ってくれるのは、嬉しいわ」
「そうか!」
芳賀さんは得意げにそう言うと、グラスを高く掲げた。
「じゃ。みっこのバースディに乾杯」
芳賀さんがイニシアチブをとって、もう一度みんなのグラスがはじけた。

「ねえ。みっこのこと、どう思った?」
適当に腹ごしらえをしたみっこは、芳賀さんと踊りに行ってしまう。
まだフロアに出る勇気がないわたしは、同じようにまだこの場に馴染めなくて、グラスを手にじっとフロアの人ごみを見ている川島君に、そう訊いてみた。
「どうって?」
「わたしが言ってたとおりの印象だった?」
「そうだな…」
川島君は少し考えて言う。
「意外だった」
「意外?」
川島君の答えの方が意外に感じ、わたしはおうむ返しに訊く。
「ぼくはもっと可愛くて明るい女の子を想像してたよ。でも彼女、なんだか怖いな」
「怖いって?」
「まだ、ちょっとしか話してないから、あくまで第一印象なんだけど… 森田さんって、見事に親近感がないっていうか、なんだか壁を作って話してるって感じ」
「初対面だからじゃない? まあみっこって、気さくなようで、男の人に対しては、構えてるようなところがあるから」
「それもあるだろうけど… でも彼女の場合、なんて言うかな…
『男と対等な立場で話をしようとしている』感じ… って言えばいいのかなぁ。そんな印象」
「まあ、みっこって、男の人にはシビアな面はあるわよね」
「そうだろうな。ああいうタイプは、並の男じゃ持て余すんじゃないかな」
「持て余す?」
「男って一般的に、自分に従うタイプの女の子が好きなんだよ。
精神的にも肩書き的にも、自分の方が優位に立たないと気がすまないって言うか… だから、対等な立場で話をしてくる女性って、尊敬できても、『あまり恋人にしたくない』って意見が、けっこう多いみたいだよ。
少年マンガによく出てくるような、だれからも好かれるくらい優しくって可愛いけど、自分だけをいつも好きでいてくれて、どんな時でも男を立てる処女が好きなんだよ。フツーの男って」
「そんなものなの? まあ、『生意気でわがままな小娘』だもんね、みっこって」
「そんなもの」
ふうん。なんだか意外。
わたしはみっこみたいに外見が綺麗でスタイルがよくって、性格も律儀で機転がきく頭のいい女の子は、どんな男の人にも好かれるって思ってた。
男の視線と女の視線って、やっぱり違うものなのね。

「あ〜っ。おなかすいちゃった!」
しばらくしてフロアから戻ってきたみっこは、ソファに腰を降ろすなりそう言って、テーブルの上のフライドポテトをつまんだ。
「わたし、みっこがお立ち台の上で踊ってるとこ、見てみたかったのにな〜」
わたしがそう言うと、みっこはおどけるように両手を広げ、肩をすくめる。
「あそこは女の戦いの最前線よ。あたし、そんなのに加わるつもりなんてないわ」
「あれ? 世界中の女に勝つんじゃなかったの?」
「あはは。さつきって痛いとこを突くわね〜。あ! 新しいお皿が出るわ。さつき、取りに行こ! これだけは、世界中の女に負けられないわよ!」
そう言ってみっこは立ち上がり、フーズコーナーへとわたしを引っ張っていった。

 わたしとみっこはそうやって、ボックス席とフーズコーナーを何回も往復した。
みっこはスナックをつまんだり、カクテルをオーダーしたり、はじめてディスコに来たかのようにはしゃいでいる。
「あたし、もう3杯目よ」
みっこは、バーカウンターで作ってもらったばかりのカクテルを頬に当て、とろんとした瞳でわたしを見つめて微笑んだ。
「ええっ。それってちょっと、ペース早すぎるんじゃない?」
「そんなことないわ」
「みっこ、瞳がラリってるわよ」
「ふふ。だっていい気持ちだもん」
そう言ってみっこはふわふわと歩いていたが、ふとわたしの耳元に唇を寄せ、訊いてきた。
「ねえ、さつき。川島君とはどこまで行ったの?」
「どこって… いきなりなんなのよ?」
「もうキスくらいしたの?」
「ええ〜っ。まだそんなんじゃないわよ〜」
突然のストレートな質問に、わたしは耳たぶまで真っ赤にして否定する。みっこはいたずらっぽく微笑む。
「『まだ』ってことは、『そのうち』ってことなのね」
「もうっ。みっこったら、すぐ人の言葉じりにからむんだから」
「さつきに聞いたってダメみたいだから、川島君に聞こっかな〜」
からかうようにみっこはそう言い、カクテルグラスを手にして、さっさと行ってしまう。彼女に遅れてボックスに戻ってみると、みっこはしっかり川島君の隣のシートに座り込んでいた。

「パートナー・チェンジよ。さつき」
そう言いながら、みっこは芳賀さんとわたしにウィンクする。
あ… 彼みたいなタイプ、わたし苦手なのに。
わたしはしかたなしに、芳賀さんの隣に腰を降ろした。

「さつきはディスコには、よく来るのか?」
芳賀さんはカクテルグラスを差し出しながら、わたしにそう聞いてきた。
ううっ。いきなり人の名前を呼び捨てにしてほしくない。
「う、ううん。ディスコなんてはじめて」
「そう…」
「はっ… 芳賀さんは?」
「俺? まあね。ボチボチ来るかな。ここははじめてだけど」
「そう」
「ダンス、好き?」
「わたし、踊ったことないけど… 見るのは好き」
「ふ〜ん。ふだんはどこで遊んでるんだ?」
「遊びって、わたしあまり知らないし… 本屋さんくらいかな」
「へえ…  本屋ねえ」
「…」
「…」
「…き、今日は寒いですね」
「そうだな」
「風邪、ひかないようにしないと」
「ああ」

どうも会話がスムーズにいかない。
悪い人ではなさそうなんだけど、やっぱり苦手なタイプだ。
この人とはわたし、『お天気の話』と『健康の話』くらいしかできそうにない。

芳賀さんとそんな会話をしながら、ふと川島君とみっこの方に目をやると、ふたりはずいぶん話がはずんでいる様子。
みっこは『やだぁ』とか言いながら、コロコロ笑っているし、川島君もいつもの人なつっこい微笑みを浮かべながら、みっこに視線を向けている。
川島君ったら、みっこのことを『怖い』なんて言ってたわりに、けっこうフツーに喋ってるじゃない。ちょっと妬けちゃうな。

「それでね川島君。さつきったら学校じゃいつも、あなたの話ばかりなのよ。のろけられてばかりで、お腹いっぱいになりそう」
「まったく、なんの話ししてるんだか… 怖いなぁ」
「あなたたちがつきあう前のことも、いろいろ聞いたわよ」
「さつきちゃん、ひどいんだよ。ぼくに、『友達にモデル級の子いるけど、その子紹介しようか?』なんて、平気で言うんだよ」
「あ〜。その話あたしも聞いたけど、それってぶっちゃけ、最終兵器よね」
「だろ? ぼくはそれで『玉砕だっ』って思ったよ」
「あはは。そこから立ち直ってくるなんて、あなたもすごいじゃない」
「はは。そんなこと… ぼくの方も、いつも森田さんの話を聞かされてるよ。さつきちゃん、熱心に話すんだよ」
「どんなこと言ってるの?」
「学校でのこととか、ファッションのこととか… 海に行って、森田さんがしでかしたことの話は、けっさくだったな」
「んもうっ。さつきったら、そんな話までしてるの?」
「森田さんって、けっこう過激な性格なんだね」
「そうね〜…」
川島君がそう言うと、みっこはいたずらっぽい瞳をしながら軽く微笑み、川島君の持っていたカクテルグラスを取り上げながら言った。
「それで、あなたたち、どこまで行ってるの?」
「え?」「え?」
わたしと川島君の声がハモった。
「川島君って、なんだか冷静で知的な感じよね。でも、ふたりで会ってて、文学や写真の話や、あたしの噂話しかしてない、ってわけじゃないんでしょ?」
「そりゃそうだけど…」
「あなたの冷静さの裏に隠された熱い魂を、いろいろ聞かせてほしいかな〜」
ええ〜っ! みっこ本気?
ほんとに川島君にまで、そんなこと聞かないでよ!
「あはは… まだ話せるようなこと、なんにもしてないよ」
川島君は頬を赤らめて答える。
「つまんな〜い。あなたの理性をなくさせる程の魅力を、さつきに感じてないとでもいうの?」
「そんなことないよ。さつきちゃんは可愛くて魅力的で、フェロモンたっぷりだけど… もっと大切にしたいんだ。彼女のこと」
「ふうん…」
「そういう目的で、つきあってるってわけじゃないしね」
「なるほどね〜…」
みっこは意味深な含み笑いを浮かべながら、川島君にささやく。
「川島君って、未経験(まだ)なんだ」
「う…」
みっこの発言に、川島君も思わず言葉を失った。
「うふふふ。この正直者め」
「もうっ! みっこったら。酔っぱらってるんじゃない?」
「うん。あたし酔ってるよ〜。気持ちいい〜」
みっこはご機嫌な感じで、手元のグラスを振って笑う。放っておいたらこれ以上、なにを言い出すかわからない。 まったくもう、みっこって『からみ酒』だったのね。まいったな〜。
「まあ、確かに、ぼくはドーテーだけど、だから最初の相手は、さつきちゃんしかいないと思ってるよ」
川島君はみっこを見つめて、ニコリと笑った。
「む… なかなか見事なフォローじゃない。見直したわ」
「もうっ。ふたりしてわたしをサカナにして語らないでよ。恥ずかしいんだから!」
わたしは真っ赤になって大声を出した。
だけど、ちょっぴり嬉しい気もする。川島君があんな風に言ってくれて…
「そうだな。ぼくたちのことをこれだけ話したんだから、次は森田さんたちの番だな」
「そうよ。わたしもみっこのこと、いろいろ聞きたいわ。芳賀さんとの仲とか、どこまで行ってるかとか」
川島君が反撃に出たのをきっかけに、わたしもみっこに追い打ちをかけた。
「ん…」
わたしたちの問いに答える気配もなく、みっこは芳賀さんをちらりと見る。芳賀さんはみっこの代わりに、冗談めかして言った。
「まあな。『沈黙は愛』ってところさ」
なにそれ? よくわかんない。

そのとき、フロアには新しい曲が流れ出し、歓声が上がった。
あ。カオマの『ランバダ』だわ。
「この曲好き! 芳賀くん、踊ってあげるわ。行きましょ!」
みっこはそう言って芳賀さんの手を取ると、さっと席を立った。
「さつきも踊らない?」
「あ… わたしはまだいい。ここで見てるから」
「じゃ、見ててね。すごいの踊ってあげるから」
みっこはそう言いながら軽くウィンクして微笑むと、芳賀さんと腕組みしてフロアへ出た。
またしても、みっこにはぐらかされてしまった。みっこは自分のこととなると、いきなりガードが固くなるんだから。ずるいわ。

 森田美湖と芳賀修二はフロアの真ん中で向かい合い、互いに手を差し伸べる。
イントロから歌がはじまった瞬間、芳賀さんはみっこの腕をグイと引っ張った。
みっこは綺麗なターンを決めながら、芳賀さんの腕の中に納まり、芳賀さんにからだを預けたまま、髪を乱して唇をゆるめ、求めるような視線で、彼に顔を寄せる。
官能的なラテンのリズムに合わせて、みっこは芳賀さんの股に脚を深く入れて下半身を密着させ、激しく腰をグラインドさせながら、ときにはからだを大きくのけぞらせて脚を高く持ち上げる。芳賀さんの肩から胸を伝って腰にまで、しっとりと這わせる指先が色っぽい。なんて挑発的でエロティック!
ラテンのダンスって、情熱的で淫らで、『恋人の踊り』なんて言われてるものもあるけど、まさにみっこはそんな感じ。
短いドレスのすそから、ショーツが見えるのもおかまいなしに、愛の情欲を全身で表すかのように、激しくなまめかしく身をよじって、みっこはねっとりとしたランバダのリズムに抱かれていた。

「そこのペア、すごいね。悩ましいよ!」
D.Jの軽口が飛ぶ。
回りで踊っている人たちも、みっこと芳賀さんの迫力に圧倒されて、いつの間にかふたりを囲むように人の輪ができ、手拍子をとったり口笛を吹いたりしていた。美男美女のペアはやっぱりサマになるわ。

「さつきちゃん」
みっこのダンスに見とれていたわたしの隣に席を移して、川島君はささやいた。
「森田さん、芳賀さんが本当に好きなのかな?」
「え? どういうこと?」
「森田さんの彼を見る目が、なんだか冷たいんだ。好きな人を見る目じゃないよ」
「芳賀さんはみっこの恋人じゃないってこと?」
「たぶんね」
「でも…」
わたしはみっこと芳賀さんのことを、最初から振り返ってみる。
ダブルデートを提案してきたときは、『彼氏なんてできたの?』ってわたしの問いにみっこは答えず、今日も『芳賀修二くんよ』と、紹介しただけ。
そうか。
みっこは彼のことを『恋人』だなんて、ひとことも言ってない。わたしが勝手に思い込んでいただけだわ。
みっこは嘘をついてはいないけど、本当のことも言わない。それって、彼女がよくやる手だった。
だけどみっこは、あんなに親しげに芳賀さんと踊っている。こんなにからだを密着させて踊るなんて、ただの友だちじゃ考えられない。いったいふたりは、どういう関係なんだろ?

 5・6曲続けて踊ったふたりは、はぁはぁと息をはずませながら、ボックスに戻ってきた。
「最っ高!」
みっこはソファーに埋もれると、そう言ってひといきにハイ・ボールを飲み干し、芳賀さんはそのとなりで『LARK』をくわえた。
「みっこ。すっごいよかったわよ。ふたりとも息がぴったり合ってたし」
「ランバダってテレビで見たことはあるけど、生だと余計に迫力あるというか、悩ましすぎるダンスだな。森田さんと芳賀さんのダンス、感動したよ」
わたしと川島君は、口々に感想を述べた。
「ありがと」
「あたりまえさ。みっこと俺は、ジャズダンスのチームメイトだもんな」
「えっ。みっこはバレエの他にジャズダンスまでやってたの? わたし全然知らなかった」
「だろ。こいつ、冷たいとこあるんだよな。まぁ、そこが魅力でもあるんだけどな」
みっこはソファーからいきなり身を起こすと、火をつけたばかりの芳賀さんの『LARK』をつまみ取った。
「あたしの前でタバコ吸わないでって、言ったでしょ」
『LARK』を灰皿でもみ消しながら、みっこは続けた。
「そうよ、チームメイト。でもあなたのダンスは、まだまだヘタクソよ」
みっこはそう言って芳賀さんをからかったが、川島君の台詞もあって、そのときのみっこの彼を見る目が、わたしにもとても冷たく感じられてしまった。
「そりゃ、おまえから見れば俺達全員、まだまだドシロウトさ」
「技術もだけど、芳賀くんって、いっしょに踊っていると『照れ』が見え隠れするのよね〜。特にランバダみたいなラテン系のダンスって、自分に酔うことが大事よ。ホールドしてる相手が照れてると、こっちまで恥ずかしくなってしまうんだから」
「おまえとあんなにからだをくっつけて踊って、『照れるな』って方が無理だろ」
「なにそれ。そんなつもりじゃ、もう踊らないわよ!」
「う… そんなわけじゃ…」
「あの… みっこと芳賀さんは、いつからいっしょに踊ってるの?」
わたしは横から口をはさむ。話題を変えるように、芳賀さんが答えてくれた。
「今年の夏くらいかな? タウン誌にメンバー募集の公告を出したら、それを見てこいつが来たんだけど、いきなり最初からすごい踊り踊ってくれてさ。俺たちメンバーを、みじめな気分にしてくれたってわけさ」
「あたしの踊りくらいでみじめになってるようじゃ、プロになんかなれないわ」
「バカ言うなよ。おまえくらいスタイルと顔がよくて、踊りの上手い女なんて、プロのダンサーにだってそんなにいないぜ。俺が惚れてしまうのも、無理ないだろ」
みっこは芳賀さんの言葉に熱く瞳を閉じて、めまいを抑えるかのように、ソファーに身を沈める。

そうか。
少なくとも芳賀さんは、みっこのことが好きなのね。
「みっこ。おまえが俺たちのチームに入ってきたのは、俺にとって運命だったんだ。
おまえとこうやって踊れるようになって、俺は幸せなんだよ」
いきなり『ラテン男』に変身した芳賀さんは、みっこの肩に腕を回し、耳もとに顔を寄せて、愛の言葉を熱くささやく。
「俺ももっと、おまえにふさわしい男になるからさ。いっしょにプロのダンサー目指そうぜ」
「あたしはプロになんか、なるつもりないわ」
みっこはむきになって、身をよじって芳賀さんを拒む。
「相変わらずつれないな。だけど俺は、おまえのそんなクールなところも好きなんだぜ」
「もうっ。恥ずかしいじゃない。そういう話は、ふたりっきりのときにするものよ」
そうたしなめて、みっこは肩に回された芳賀さんの腕を、ぎゅっとつねる。「つっ」と声を漏らした芳賀さんは、バツが悪そうにみっこから腕をどけると、取り繕うように上着のポケットを探った。
「ダンスのとき以外は、あまりベタベタ触ってほしくないの。それからタバコ! やめてって言ってるのがわかんないのっ?」
芳賀さんがポケットから取り出した『LARK』を、みっこは箱ごとひったくって、フロアの方に投げ捨てた。
「みっこ!」
わたしは思わず叫んだ。
「あ…」
さすがのみっこも、うかつに見せた自分の失態に、一瞬沈黙した。
が、すぐさまもとの微笑みを取り戻すと、わたしたちのグラスを集めて、にこやかに言った。
「ご、ごめんね芳賀くん。あたし… 踊ったらいっぺんにラリっちゃって… つい興奮しちゃったみたい。芳賀くんは、あたしの大切なダンス仲間だから」
みっこはさらに明るく振る舞って、みえみえの言いわけをしながら、みんなに微笑みを投げかける。
「さ。飲も! あたしカクテル作るのは、わりと上手なのよ。さつき、そっちのウイスキー取って」
みっこは陽気にはしゃぎながら、わたしから渡されたウイスキーの蓋を開ける。
『HAIG』にベルモットを三分の一。アンゴスチュラを数滴たらして、バースプーンでかきまぜて…
だけど、グラスを見つめる彼女の瞳には、どこか暗い翳(かげ)りがさしている。どんなにはしゃいでみせても、もう、わたしにはわかる。
今日のみっこは、どこかおかしい。
まるで深い憂鬱を隠すかのように、無理してダブルデートなんかをくわだてて、恋人でもないダンス仲間と、こんなところに来て…

みっこを見つめながら、そんなことをわたしが思っているとき、彼女はバースプーンを持つ手を虚ろに止めて、できあがったばかりのカクテルを、アイスバケットに流してしまった。
そして、「ふぅ」とためいきを漏らし、長い睫毛を伏せながら、眉間にしわを寄せた。
「あたし… 気が滅入るのがわかってて、どうして来ちゃったんだろ」
それは聞き取れるか取れないかくらいの、ほんとにか細いささやき。
ディスコの強烈なサウンドに紛れて、きっと川島君にも芳賀さんにも、聞こえていない。
だけどわたしには、はっきりそう聞こえてしまった。
「…みっこ?」
みっこが今にも消えてなくなりそうで、わたしは急に不安になって、彼女を呼んだ。
「…あ。いや〜ね! あたしったらカクテル作るの、ちょっと失敗しちゃって…」
みっこは気分を変えるかのようにそう言って、キャッキャとはしゃいでみせる。
だけどそれさえ虚しくなると、突然“カタン”とバースプーンを置いて、素早く立ち上がった。
「みっこ?」
「お化粧直してくる」
彼女は早口でそう言い捨て、席を離れる。
しかしその刹那、わたしにははっきりと見えた。
彼女がいつも隠して見せまいとしている、深い哀しみの表情を…

「みっこ? みっこじゃないか! 久し振り。元気だった?」
そのときだった。
『彼』が現れたのは…

ドレッシングルームへ向かいかけたみっこは、振り向きざまに相手を認めると、思わず立ち止まった。
凍りついたように立ちすくむ彼女の顔から、さっと血の気が失せる。
わたしは声をかけた人を振り返った。
そこには25・6歳くらいの背の高い、仕立てのいいスーツを着た落ち着いた感じの、容姿の整った男性が立っていた。

“パサッ”

みっこの持つポーチが、無情にフロアに転がった。


 今はみんな沈黙している。
激しいディスコ・ミュージックの旋律も、レーザーのイリュミネーションも、ステージの喧噪も、森田美湖のまわりには感じられない。
彼女はわたしたちの視線を背負いながら、ゆっくりかがんでポーチを拾った。

「お久し振りです。あなたこそお元気そうで、なによりです」
相手の顔も見ずに、みっこはやけに慇懃(いんぎん)に答える。
がしかし、『彼』はそんなみっこの動揺なんて、すでに見透かしている様子。
「しばらくお会いしない間に、また一段とお嬢様っぷりに磨きをかけられたご様子。恐悦至極に存じ上げますよ。ぼくは今春から福岡に転勤になっててね。週末は気晴らしにこのディスコにはよく来るから、君もぼくに会いたいときは来るといいよ。まあ、ここは『思い出の場所』だしね」
「…」
『彼』の台詞なんて耳に入らないといった様子で、みっこはパンパンとポーチの埃を払う。
いったいこの人はだれかしら?
親しげな口のきき方といい、みっこの普通じゃない驚き方といい…
わたしは直感的に『別れた恋人』だと感じた。
みっこは背中を『彼』に向けて、視線を床に落としたまま、ぶしつけに訊いた。
「どうせ、ひとりで来てるわけじゃないでしょ」
「それはそうだ。このディスコも男は女性連れじゃないと入れないしね」
「…」
「君はどうなんだ? あれからちょうど一年だし、新しい彼氏もできたんじゃないか?」
「…」
「なんてったって、君は『スーパーモデル』だからね」
からかうようにそう言った彼を、みっこは突然振り返って厳しく睨むと、挑むような口調で言った。
「今のあなたの彼女。当然あたしなんかより綺麗なんでしょ!」
わあ。すごいイヤミな言い方。
わたし、みっこの皮肉や毒舌もいろいろ聞いてきたけど、こんなに露骨で挑戦的なのははじめて。
だけど『彼』は、そんなみっこの挑発も、涼しい顔で受け流すように言う。
「そういうのは、『負け犬の遠吠え』って言うんだよ」
「なんですって」
「君より綺麗かどうかは、自分で判断すればいいさ。さあおいで、紹介するよ」
「けっこうよ! そんなもの、見たくもないわっ!」
二の腕を掴んだ彼の手を思いっきり払いのけて、みっこは声を荒げた。
みっこの顔は、まるで幾重にも重ねられたガラスを通して見るように、蒼ざめている。
こんなに緊張したみっこは、今まで見たこともない。

「あ、あの… みっこ」
「え…? ああ…」
わたしの呼びかけに『救われた』というように、ほっと息をついたみっこは、気を取り直して、わたしたちに『彼』を紹介してくれた。
「この人は、藍沢直樹さん。あたしの… 古い友だちなの」
「はっきり言ってもかまわないだろ。『元恋人』だって」
藍沢直樹氏は意地悪い微笑みを浮かべながら、みっこに言う。
やっぱり。
わたしの直感は当たってたんだ。
「…藍沢さん。彼女はあたしの友だちで、弥生さつきさん」
「よろしく」
藍沢氏は微笑みながら、右手を差し出す。
みっこはわたしに耳打ちした。
「気をつけてさつき。この人かなりの遊び人だから」
「みっこ程じゃないですけどね」
藍沢氏はわたしの手をとって、微笑みながら言う。みっこの皮肉にまったく動じることのない,不敵な微笑み。さすがのみっこも、藍沢氏には敵わないという感じ。
そうやって川島君や芳賀さんとも挨拶を終えた藍沢氏は、そのままわたしたちのボックスのソファに腰をおろして、みんなと話をはじめてしまった。

「Moulin Rougeって、なんだか知っていますか?」
ソファに落ち着いてグラスを揺らしながら、わたしたちに語りかけてくる藍沢さん。そんなキザな仕草がサマになっているのは、年齢を重ねた大人の魅力と、端正な顔立ちだからかもしれない。
「確か、パリのキャバレーの名前だったと思うけど…」
川島君がそう答えると、彼はニコリと微笑んだ。
「そう。ベル・エポックの時代に流行った、パルの名前。『赤い風車』って意味だそうですよ。ほら、パリの観光写真でよく見かける、ピカピカ光った風車の建物。もう100年も前からカンカン踊りをやってる、パリの名所ですよ」
「あ。わたしその頃のロートレックとかミュシャのポスター、好きです。確か、ムーランルージュも出てきたと思います」
「ロートレックは娼婦や踊り子のような夜の女を愛して,ムーランルージュに入り浸って彼女らを描いていましたからね。ミュシャの民族愛に溢れた生き方とはだいぶ違うけど、どちらもアールヌーボーを代表する巨匠ですね。ぼくもミュシャが好きで、部屋には『スラーヴィア』のレプリカが飾ってますよ」
「『スラーヴィア』いいですね〜。わたしも画集で見たとき、たっぷり10分くらい見惚れてました」
「へえ。さつきさんとは趣味が合いますね。川島君はどんな絵が好きですか?」
「ぼくはアールヌーボーより、印象派の方が好みです」
「ああ。ドガやルノアールみたいな? いいですよね」
そう言って藍沢氏は、川島君に微笑みながらグラスを差し出す。その言葉に少し打ち解けたのか、川島君はグラスを受け取り、口元をゆるめて言った。
「ええ。ぼくはドガの踊り子シリーズとか好きなんです。高校で美術部にいたときは、何度か模写しました」
「すごいな。あんな難しい絵を?」
「あはは… もちろん、ドガの足許にも及ばなかったですけどね」
「わたしもルノアールは好きよ。今度、大濠美術館で『印象派展』があるでしょ。みんなで見に行かない? ね、川島君。みっこに芳賀さん」
「いいね」
「ん…」
「俺、絵にはあまり興味はないな」
川島君は頷いてくれたけど、みっこは元気なくひとこと言って、そっぽを向いてしまうし、芳賀さんはまったく気のない様子。少し白けかけた雰囲気を盛り上げるかのように、藍沢氏は明るく喋りはじめた。
「それは楽しそうですね。じゃあ、これ使って下さい」
彼はスーツの内ポケットから財布を取り出すと、中から数枚のチケットを、わたしたちに差し出す。
「今度の『印象派展』の招待券ですよ」
「でも…」
戸惑う川島君に、藍沢氏は明るい調子で続ける。
「心配ないですよ。ぼくの会社で今、得意先に配っているものだから。いつもたくさん回ってくるので、いくらでも使って下さい」
「じゃあ、どうもありがとうございます」
川島君がお礼を言って受け取ると、藍沢氏はニッコリ微笑んだ。
う〜ん…
さっきから感じているんだけど、藍沢氏の微笑み方って、どことなくみっこの印象と重なってしまうのよね。

 藍沢氏は、みっこに対していたときとはまるで別人のように、温和でやさしく、親しげにわたしたちに気を遣ってくれる。
知識や話題も豊富で、会話のキャッチボールが上手く、わたしや川島君がどんな話を切り出してきても、スムーズに受け答えして、会話を楽しませてくれる。
それに雰囲気も落ち着いているし、テーブルに肘をつきながらラフにものを食べる仕草さえ、どことなく品の良さが感じられる。
そういうのはやっぱり、おとなの男性の魅力なのかな?
藍沢氏には、同い年の男の人にはない余裕と、大きな包容力を感じてしまう。
これならどんなにわがままな女の子でも、上手く受け入れて、手のひらで転がしてあげて、つきあっていけそう。
『この人はやっぱり、みっこの恋人だ』
わたしはそう、実感した。
じゃあ、どうしてみっこは彼と別れてしまったの?
藍沢氏が加わってからというもの、みっこはもう見栄もプライドも繕う余裕さえないように、彼から目を逸らして、ソファに深く埋もれたっきり、黙り込んでいる。
あの、『生意気でわがままな小娘』の森田美湖をこんなにしてしまうほど、藍沢氏の存在は彼女にとって、大きなものなのに…

「…」
ふと、会話がとぎれ、一瞬の気まずい沈黙が漂った。
藍沢氏はそんな雰囲気を拭おうとするかのように、みっこに向かって注文した。
「そうだみっこ。久し振りにカクテル作ってくれないか? 昔よく作ってくれただろう、ぼくの好きな『マンハッタン』」
「もう、忘れたわ」
視線をそらせたまま、みっこはそっけなく答える。
「しかたないな。じゃあ教えてあげるよ。いいかい? ほらみっこ、こっちを向いて!」
藍沢氏は、彼を見ようともしないみっこを、たしなめる。
「人が話しかけているのにそっぽを向くのは、マナー違反だろう」
みっこはしぶしぶ、藍沢氏の方に向き直った。
「ウイスキーと… あ、弥生さん。それ取ってくれる?」
そう言いながら彼は、わたしの手元に置いてあった『HAIG』を指差す。わたしは彼にボトルを渡す。
「ウイスキーにベルモットを三分の一。アンゴスチュラを数滴たらすだろ…」
みっこはまったく気のない様子で、藍沢氏の手元を眺めている。わたしは興味深げに、彼が長くて綺麗な指先で、カクテルを作っていく様子を見守った。
「…そしてステア。これが『マンハッタン』」
藍沢氏はそう言って、笑いながらグラスを傾けた。琥珀色の輝きがとても綺麗なカクテル。
ん?
あれ? このカクテル…

そうだわ。
さっき、みっこが作ったカクテルだわ!
『あたしカクテル作るのは、わりと上手なのよ』
そう言ってみっこは、これと同じものを作った。
そして、それをアイスバケットに捨ててしまって、まるで張りつめた糸が切れるかのように、沈み込んでしまったんだ。

そうだったのね。
カクテル『マンハッタン』は、みっこの恋の思い出…

みっこ。
あなたにとって藍沢直樹氏は、本当に大きな存在だったのね。
彼が好きだったカクテルを、知らず知らずのうちに作ってしまうくらいに…
ううん。今日だけじゃない。
わたしの片想いの相談をした喫茶店でも、いつかの港の埠頭でも、もっと遡って、あの夏の日にはじめて恋の話をしたときも、みっこはいつだって、藍沢氏のことを、思い出していたのかもしれない。
みっこの『生意気でわがままな小娘』の微笑みの裏側に、こんなにもくすぶった、やるせない執着があったなんて…
そう。執着。
藍沢氏のことを完全に拒絶しないと、自分が保てないほどの、強い執着。
もしかして、学園祭の夜にみっこの告白を聞いて、わたしが「足りない」と感じていたジグソーパズルのかけらは、これなのかもしれない。
藍沢直樹氏とのすっきりしない別れが、みっこがモデルを頑なに拒んでいる原因になっているんじゃ…

「あれ? そのカクテル、みっこがさっき作って、捨てちまったやつだろ?」
わたしの思いを遮るように、芳賀さんが声を上げた。
あんっ! この人なんて気が利かないの?
今のたったひとことで、なんとか釣り合っていた森田美湖と藍沢直樹の天秤は、大きく傾きはじめた。
藍沢氏は『したり』といった、意地悪げな表情で、みっこを見た。
「あれ? もう忘れたんじゃなかったのかい? みっこ」
「…」
みっこはなにも答えず、ただ黙っている。
「…だろうな。芳賀くんのような、かっこいい彼氏を連れてくるくらいだ。ぼくのことなんか灰皿に捨ててしまっても、惜しくないわけだ」
「…」
「たった一年で昔のことをみんな忘れてしまうなんて、女なんて薄情なものだな」
「…」
追いつめられるように、眼差しが厳しくなっていくみっこ。
わたしはなにもしてやれない。ただハラハラ見守るしかなできないなんて…
「モデルをやめて、ご両親をさんざん落胆させて、ぼくのこともあっさり振って、こんな地方の大学に進学してまで掴んだ恋だから、たいそうご立派なものなんだろうな」
「…」
「彼の背中には、爪を立てたかい?」
「…」
瞬間、みっこはピクリと反応し、両手をぎゅっと握りしめた。
「君はあの日。ぼくのことをあれほどけなして別れたんだ。そんな君がぼくより劣るような男と、付き合ったりするはず、ないよな」
その刹那。沈黙を守っていたみっこは、まるで逆鱗に触れられた龍のように、怒りをあらわにし、両手でテーブルを“バンッ”と激しくたたき、きつく眉を寄せて、獣が威嚇するかのように、低く唸るように言った。
「ええ。あなたのことなんて、とっくに忘れていたわ。
灰皿にタバコを捨てるより、惜しいとは思わなかったわ。
別れた瞬間から、昔のことはみんな忘れるほど、あたしは薄情な女よ。
それに芳賀くんはいい人だし、爪痕でも歯形でも、いくらでもあるわよ。
あたしはここに来て,ほんとに幸せになれたんだから。
あたしのこと愛してるなんて言ってて、モデルのあたししか見てくれないような、メンクイのあなたよりいい男なんて、世の中には掃いて捨てるほどいるわ。うぬぼれないで。
あなたと別れてほんとによかった。あたし、今は幸せよ。
こう言えば、気がすむんでしょ」
彼女はけっして大声で怒鳴ったわけじゃない。でも、押し殺したようなその口調からは、みっこのふつうじゃない怒りが、じゅうぶんに伝わってきた。
「君はいつでも、口先ばかりだ」
鼻先でせせら笑うように藍沢氏が言ったとたん、みっこの瞳はカッと燃え上がった。

「じゃ、こうすればいいんでしょっ!」

あっ! と叫ぶ暇さえない。
次の瞬間、芳賀さんの首に腕を回したみっこは、わたしたち三人の見守る中、彼の唇に自分の唇をきつく重ねあわせた。
「みっこ!」
うっそぉ! 思わずわたしは絶句した。
みっこはとうとう、感情が勝手に突っ走りはじめた。まるで自暴自棄。
藍沢氏もその光景にあっけにとられて、キスするふたりを驚いて見つめるだけだった。
…10秒 …20秒。
長い時間がすぎて、ようやくみっこの唇が、芳賀さんから離れた。

“バシッ”

しかし、次の一刹那、大きな衝撃音。頬を押さえる藍沢氏。
なにも言わないまま、唇をきゅっと結んでみっこは席を立ち、駆け込むようにドレッシングルームへ消えた。
すべてが不意を突かれたようなできごと。
残された四人はただ、みっこの消えた行先を、目で追うだけだった。
沈黙が、ふたたび訪れた。

「藍沢さんよ。俺、今すっごくムカついてるんだ。あんたを張り倒してしまいたいくらいにな」
最初に口を開いたのは、芳賀さんだった。
「俺はみっこのことを愛している。でもあいつは俺のことなんか、なんとも思ってやしない。俺がどんなに愛を告げても、ただの友だち以上の返事はもらえなかった。俺にとってあいつは、手に入れられない高嶺の花なんだ。だから今日、あいつからここに誘われたときは、本当に嬉しかった。あんたが現れるまではな」
「芳賀さん…」
ゆっくりと席を立って、ブルゾンの袖に手を通す芳賀さんを見上げ、藍沢氏はポツリとつぶやく。
そんな彼を、怒りと嫉妬の入り交じったような視線で見下ろし、芳賀さんは言った。
「あいつを大事にしてやれないんなら、あんたにあいつとつきあう資格なんてねえよ。でも口惜しいが、みっこはあんたのことが、まだ好きらしい。俺の人生の中で最悪のキスだったぜ。さっきのはよ」
藍沢氏は、芳賀さんの言葉を黙って聞いている。
「芳賀さん、どこに行くんですか?」
ブルゾンのファスナーを閉め、背中を向けて歩き出した芳賀さんに、わたしは訊いた。
「悪りぃ。俺、今夜はかなり落ち込んじまった。もう帰って寝るわ。じゃあな」
振り向きもせず、右手を軽く上げて、芳賀さんは踊りの群衆の向こうに消えていった。

「芳賀さんの気持ちもわかるな」
消えていく芳賀さんを目で追いながら、川島君がつぶやく。
「彼って結局、アテ馬にされただけだろ? それはプライド傷つくよ。森田さんも罪なことしたな」
「そうね…」
川島君の言葉に同意しながら、わたしは考えていた。
じゃあ、みっこはどうして今夜、『ダブルデート』なんて言い出したんだろ?
芳賀さんをダシに使ってまで、今夜、この『Moulin Rouge』に来ることに、みっことってなにか大切な意味があったの?
ここは『思い出の場所』だって、藍沢氏は言っていたけど…
そう言えばみっこは、ここに来る日にちを決めたとき、『じゃあ… 12月7日とかどう? ちょうど金曜日だし、遅くまで騒げるわ』と言っていた。
それは「金曜日の夜は騒げるから12月7日がいい」という感じじゃなく、「12月7日」がたまたま金曜日だっただけで、「12月7日、つまり、みっこの誕生日」という日にちに、意味があったということになるんじゃないかな。

そんなことを考えていると、みっこにぶっ叩かれて以来、すっかり元気をなくしていた藍沢氏が、「ふう」と大きくため息をついて言った。
「悪かったね。こんな恥ずかしいところを見せてしまって」
「い… いえ」
「七つも年下の子なのに、彼女に対すると、つい、ムキになってしまうんだ。まったくおとなげないな」
「ついムキになるほど、好きなんですね」
慰めとも質問ともつかないことを言いながら、川島君が藍沢氏にグラスを勧めた。
「あれから1年経ったけど、ぼくたちはまだ、相手のことを、より傷つけたがっているんです」
彼はグラスを煽って、そうつぶやく。
「そんなことがあるんですか? わたし。芳賀さんの言うとおり、みっこは藍沢さんのこと、まだ好きなんだと思います。藍沢さんだって、そうなんでしょう?」
「多分、そうでしょうね。だからこそ、相手のことを自分より傷つけたいんですよ」
「そんなの信じられない。『好き』って気持ちは、相手のことを大切にするってことじゃないですか?」
「人の気持ちは、そんな教科書どおりじゃないですよ」
藍沢氏はお気に入りの『マンハッタン』を揺らしながら、続けた。
「ぼくたちはね。ちょうど一年前の今日、ここで別れたんですよ」

やっぱりそうなんだ。
みっこは今夜、一年前に別れた藍沢氏のことを想って、このディスコに来た。
だけど、『気が滅入るのがわかってて、どうして来ちゃったんだろ』というみっこの言葉から、その『想い』が『未練』や『後悔』に近いものだっていうのは、なんとなく想像できる。
「どうしてみっこの誕生日なんかに、別れることになったんですか? 誕生日って、恋人同士のいちばん重要なイベントじゃないですか?」
わたしがそう訊くと、藍沢氏はテーブルに肘をつき,両手を組んで額に当てると、一年前を思い出すように軽く目を閉じ、おもむろに話しはじめた。

「確かにそうですね。あの日はこんな形でぼくたちのつきあいが終わるとは、思ってもいなかった。
去年の12月7日はちょうど、みっこが受験する大学の入学願書を取りに、福岡へ行った日なんですよ。
郵便で願書は取り寄せられるのに、みっこはわざわざ『大学まで取りに行く』と言って、きかなかった。誕生日にぼくと会うのを避けていたみたいでしたね。
それでぼくも会社を有休をとって、いっしょにみっこと福岡に来ました。
大学へ行ったあと、レストランで食事をして、みっこが『踊りたい』っていうから、そのあと、このディスコに遊びに来たんですよ。
ぼくは、みっこが福岡の大学に行くのは反対だったし、彼女のご両親も反対していた。みんなみっこには、モデルの仕事をもっと頑張ってほしかったんですよ。だから彼女の大学受験も、ぼくは全然応援してやる気になれなかったし、当のみっこも勉強熱心ではなかった。みっことの遠距離恋愛にも、自信がなかった。それまで進学や仕事のことをめぐって、ふたりがゴタゴタすることが多かったから、もし遠恋なんかになったら、もう修復はできないだろうと感じて、会社に転勤願いを出して、福岡の支店に勤められるようにしてもらったんです」
「藍沢さんはそれほど、みっこのことが好きだったんですね」
わたしがそう言うと、藍沢氏は「当然」といった表情で笑い、手元のグラスを揺らした。
「これまでぼくが出会ってきた女性の中で、みっこは最高です。みっこには、ぼくの情熱を全部注いできたんです。あの頃も「もう長くないかもしれない」とは感じていたけど、彼女のことをいちばん理解しているのはこのぼくだから、なんとかできると確信していた。
だから去年の誕生日は、彼女へプレゼントを渡して、今日くらいはけんかをせずに楽しく過ごそうと思っていたときに、みっこから突然、別れ話を切り出されたんです。いちばん手ひどい形で、裏切られることになったんですよ。
そのときは、今日みたいな言い合いどころじゃない、それこそお互いに罵詈雑言を出し尽くして、けんかしました。ただ、相手を傷つけたいために、考えつく限りの悪口は、すべて言いましたよ」
「藍沢さんはみっこが好きなんでしょう? なのにどうして、そんなひどいことができるんですか?」
わたしは問い詰めるように、藍沢氏に訊いた。
「多分、確認したかったんです」
「確認?」
川島君が聞き返す。
「相手の言葉に傷つくということは、相手のことを愛しているという証拠でもあるんです。だからぼくたちはきっと、相手が自分を、より愛していることを知りたかったのでしょうね」
「そんな確認って、おかしいんじゃないですか?」
わたしが反論すると、藍沢氏は少し考えて、言った。
「じゃあ、お互いが自分を守りたかったってことかな? 相手が少しも傷つかない別れほど、辛いものはないですからね。自分が血を流すのと同じくらいの血を、相手にも求めたということでしょう」
「そんなことをせず、もっと、次に会ったときに懐かしい友だちでいられるような、そんな別れ方はできなかったんですか?」
川島君はもどかしそうに、藍沢氏を責める。彼はしばらく言葉を探していたが、おもむろにわたしたちに訊いてきた。
「川島君と弥生さんは、恋人同志なんでしょう?」
「え? ええ、まあ…」
わたしと川島君は、藍沢氏の言葉に顔を見合わせた。彼の質問は続く。
「いつから?」
「まだ一ヶ月くらいです」
「お互い、初めてのつきあいですか?」
「ええ…」
「けんかをしたことは、ありますか?」
「ほとんどないです」
「今、幸せですか?」
「ええ…」
藍沢氏の問いに、わたしと川島君はかわるがわる答える。彼はうなずいて言った。
「じゃあ、まだわからないな」
「え? なにがです?」
「恋愛にも起承転結があるってことが。あなたたちはまだ『起』の段階だろうけど、じきに発展して、いつかは『ターニング・ポイント』を迎えるんですよ」
「ターニング・ポイント?」
「陽から陰に変わることです。『坂を転げ落ちていく』ってことですよ」
「…」
「それに気づいたときは、もう遅い。
いったん陰に変わってしまうと、もう簡単には元に戻らない。
どんなにあがいても取り戻せないし、取り戻せないから心が執着してしまって、まるで取り憑かれたみたいに、よけいに愚かなことばかりしてしまうんです。
目の前にあるのは絶望ばかり。
それから逃れるために、ふつうの判断能力すらなくなってしまう。
よく新聞を賑わす、失恋した相手を殺して自分も自殺するような人間を、ぼくは笑えませんね」
「…」
「あ、ごめんなさい。これは一般論で、全部があなたたちに当てはまるってわけじゃない。
だけど気をつけなさい。想いが真剣な分、恋愛の末期は恐ろしいですよ。
ぼくとみっこが辿った道を、あなたたちには歩いてほしくないな」
藍沢氏は最後にそう言ったきり、あとは黙り込んで、自分の想いに耽るようにうつむきながら、グラスを傾けるだけだった。

わたしも黙っていた。
藍沢氏の『ターニング・ポイント』の話は、やっぱりショックだった。
わたしは川島君との別れなんて想像したこともなかったし、したくもなかった。
ふたりの仲は永遠に続くものだと、信じていた。

だけど、それはただの錯覚。幻想でしかないの?
わたしたちも、いつかは別れるときが来るの?
わたしは、藍沢氏とみっこのさっきのやりとりの中に、自分と川島君の未来の姿を重ねてしまった。

どんなに愛していても、どうしようもないことがあるの?
そして藍沢氏の、『ぼくとみっこが辿った道を、あなたたちには歩いてほしくないな』という言葉が、わたしたちの未来を暗示しているようで、怖かった。

 ふと、気がつくと、フロアに流れる曲は、ゆるいバラードになっている。
『カサブランカ』のやるせないメロディが、インクが広がるように、じんわりと心の隅々にまで滲んでいった。
フロアに視線を移すと、人はみな頬を寄せあい、抱き合いながら、わずかにリズムをとっている。
だけど、どんなにきつく抱きあってみても、ふたりの間には、深くて暗い溝がある。
人間なんてしょせん、ひとりで生まれて、ひとりで死ぬ。
だれだって、最後はいつもひとり。
恋愛なんて、そんな辛い現実を忘れさせるための、ひとときの夢にしかすぎないのかしら?
友情も親友も、ただの幸せな錯覚でしかないのかしら?

「弥生さん。悪いがみっこを… 見てきてくれないか?」

藍沢氏がポツリとひとこと、わたしに言った。
「はい!」
わたしは自分の中の淋しい思いの連鎖を断ち切るように、明るく振るまい、席を立った。

 ドレッシングルームの灯りは、ほんのりと柔らかい乳白色。
フロアからの扉を閉めると、『カサブランカ』はゆるいBGMになった。
人の気配はない。わたしは窮屈な螺旋階段を降りて長い通路に出て、柔らかい光が漏れているいちばん奥の部屋へ、足音を忍ばせながら向かった。
 鏡が並び、簡単な仕切りで区切られた、教室くらいの広さのドレッシングルームのドアを開いたとき、BGMとは違う、別のかすかな音がわたしの耳に入ってきた。
わたしは部屋の中を見渡す。いちばん奥の鏡台にもたれかかっている、赤いドレスの森田美湖の姿が、つい立て越しに垣間見えた。
みっこは床にひざまづいたまま、ドレッサーに顔を伏せて、両腕で顔を覆っている。
みっこの背中は… 震えている。
思い出したように『ひっく ひっく』と、しゃくりあげる音がする。
みっこの咽ぶ声…

泣いてる?
みっこが?

泣いているんだ。
あの森田美湖が!

そのとたん、わたしの胸はキュンと締めつけられ、こみ上げてくる思いでいっぱいになった。
森田美湖って、わたしが思っているほど、強くてしたたかな女の子じゃなかった。
わたしと同じように、恋に傷つき、悩みを抱える、ただの女の子なんだ。
彼女の震える小さな背中を見ていると、そばに駆けよって、慰めてやりたい気持ちになる。
「みっ…」
一瞬出かかった言葉を呑み込み、踏み出した足を止めて、わたしは立ちすくんだ。
今の状態のみっこに声をかけたところで、わたしになにができるだろう?
あの、プライドが高く、人に弱みを見せるのが嫌いな森田美湖に対して、どんな慰めの言葉があるというのだろう。
わたしは彼女のそばに寄ることができず、かといって、このまま引き返すこともできず、ただ、遠くから見守っているだけだった。

 どのくらいそうしていただろう。やがて、螺旋階段をカンカンと駆け下りてくるハイヒールの音と、数人の女の子の話し声が聞こえてきた。
みっこに見つかるのはよくない。わたしはそう感じて、彼女に気づかれないよう、そっと部屋を出た。
多分、今のわたしが彼女にしてあげられることは、そっとひとりにしておいてあげること。
それくらいだと思ったから。

 なんとも言えない,複雑な気持ちで、わたしはドレッシングルームをあとにした。
今夜のわずかな時間の中で起こった、さまざまなできごとの中で、自分の力のなさを痛いくらいに思い知らされた気分。
わたしは『みっこのそばについていてあげたい』という気持ちに引きずられながら、力なく螺旋階段を登っていった。
ふと、視線を上げると、階段の途中に、川島君の姿があった。
「川島君…」
彼の姿を見たとたん、わたしは安心したような、なにかにすがりつきたいような、そんな思いにかられて、階段を駆け上がり、彼の胸にしがみついて、顔を埋めた。
「さつきちゃん。森田さんは… どうだった?」
「泣いてる。だけどわたし、どうすることもできない」
「…」
「『忘れた方がいいよ』とか『新しい恋を探した方がいいよ』とか言ってみても、みっこは一年も過去から抜け出せないでいるじゃない。わたし、みっこになんて言ってあげればいいか、わからない。
わたし… 思い上がってた。みっこのこと、分かってあげられるって。
わたしって、全然みっこの親友なんかじゃないよね…」
川島君は、しがみついているわたしの手を、ぎゅっと握って言った。
「そんなことないよ。さつきちゃんは、見守っていてあげればいいだけだよ」
「そう?」
「森田さんは今まで、自分のことは全部自分で解決してきたんだろ? 今度だってそうだよ。さつきちゃんがそばにいるだけで、きっと森田さんも力づけられると思うよ」
「…そうかな」
わたしは川島君の言葉に少し安心して、また頬を埋めた。
川島君はこんなに優しく、わたしのことを気遣ってくれる。わたしのそばにいてくれる。
なのに、いつかはわたしたち、別れてしまわなければならないの?
わたしも今夜のみっこのように、涙を流さなきゃいけないの?

「わたしたち、別れるの?」

わたしは唐突に、川島君に訊いた。
「藍沢さんの言うように、わたしたちにもいつかは、ターニング・ポイントが来るの?
それは、どうしようもないことなの?」
わたしは川島君の瞳を見つめた。とにかく、確かなものが欲しかった。
「ぼくはあんな、運命論みたいな考え方は、嫌いだ」
力強くわたしを見つめて、川島君は言う。わたしはその瞳を、すがるような気持ちで見上げていた。
川島君はぎゅっとわたしを抱きしめると、わたしの頬に手をそえる。暖かいぬくもり。彼はゆっくりと顔を近づけ、わたしの唇に重ねた。
「ん…」
抗うこともせず、わたしは反射的に瞳を閉じた。
彼の柔らかな暖かさが、わたしの唇をとおして、からだ全体に満ちていく。
しっとりと潤う感覚にからだの力が抜けていき、わたしは川島君にからだを預けた。

いったいどのくらい、そうしていたかは、わからない。
ただ、気がついたら、川島君はわたしの肩にぽんと手を置き、微笑んでいた。

「お互いが相手のことを思いやってさえいれば、ターニング・ポイントなんて、来やしないよ」
「…ん」
わたしは恥ずかしさで頬を赤らめ、うつむいてひとことだけ言った。
そうよね。
運命なんて、自分の力で切り拓くものよね。
ただ、安らかな想いだけが、わたしの中に溢れていた。


 チークナンバーが数曲続き、フロアにロックの活気が戻ってきた頃、みっこはようやく躊躇(ためら)いがちに、それでいて、意するところがあるようなしっかりとした眼差しで、ドレッシングルームから戻ってきた。
わたしは思わずみっこの側に駆け寄る。
「みっこ…」
彼女はちょっと驚いたようにわたしを見たが、すぐにわたしの心配を察して、それを打ち消してくれるかのように、かすかに微笑んでうなずく。

さっきまでのみっことは、もう違う。
彼女のはにかむような微笑みを見て、わたしはそう感じた。
ドレッシングルームでひとり、気がすむまで泣いて、みっこはなにかを掴んだのかもしれない。
川島君の言うように、彼女は自立心の強い子だから、下手にわたしが声なんてかけない方がよかったんだ。
みっこは藍沢氏が座っているソファの前まで進み、明るく声をかけた。
「直樹さん、まだここにいたの? あなたの恋人、ずっと放ったらかしにしたままでしょ?」
「え? ああ、そうだな。でもいいさ。今日は大勢で来てるから、ぼくひとりが抜けたところで、どうってことないんだ」
「ばかね。彼女を紹介してほしいのよ」
「え?」
「さっきはあんなに会わせたがっていたじゃない? だったら、ここに連れて来たらいいわ」
「みっこがそれでいいなら、ぼくはかまわないけど…」
みっこの落ち着いた態度に、不意打ちを食らったように藍沢氏は戸惑っていたが、おもむろにソファから立ち上がると、決心するようにうなずき、彼女に言った。
「君のことは、やっぱり愛しているよ。一年経って、今日ようやく気づいた」
「…」
「ぼくたち、どうしてこんなことになってしまったのかな? こんなに傷つけあう必要は、なかったはずなのに」
「…」
「結局、君のことを思いどおりにできなくなってきたという苛立ちから、君を強引に屈服させようと思って、あがいたのかもしれないな」
「…」
「ぼくは君を中学生の頃から知っているけど、きっといつまでも子ども扱いしていたんだ。
だけど君はいつのまにか、おとなの女性になっていた。
これからはお互いに、ひとりのおとなとして、つきあっていかないか?」
「あたし、あなたが知らないこの一年で、ずいぶん変わったわ。だからもう、あたしはあなたの知っているあの頃のあたしとは、全然違うと思うの。
あたしがおとなになったことに気がつかなかったように、あなたはきっと、そのことにも気がつかない。だからもう、無理だわ」
「そんなことはない! 君のことをいちばん理解しているのは、このぼくしかいない」
「じゃあ、あたしが今、なにを考えているか、わかる?」
「君は… 後悔している。モデルをやめたことを。ぼくから離れたことを。でも君は強情だから、それを認めたくない」
「…」
「ぼくもわがままが過ぎた。これからは君を大切にするよ。一年前のことは、もう忘れよう」
「…ダメね」
「え?」
「あたし、今は、あなたがあたしより素敵な人と、幸せになってほしいって。そう考えているの」
「そんなの… ははは…」
「彼女、連れてきて」

しぼむように笑いが消えてしまった藍沢氏は、みっこに促されて、フロアを横切っていったが、すぐにひとりの女性を連れて、戻ってきた。
背が高くて細身で色白の、さらりと綺麗なロングヘアがとっても清楚で魅力的な、おとなしい感じの女の人だった。
ウエストがきゅっと締まったAラインのロングワンピースが、よく似合っている。顔も小さくて整っていて、瞳が澄んでいて美しく、まさに『モデル級』。
藍沢氏は彼女とみっこの間に立って、お互いを紹介した。
「美由紀さん。彼女は森田美湖さん、ぼくの友だちなんだ」
「はっきり言ってもかまわないんじゃない? 『昔の恋人』だって」
みっこがそう言って茶化す。美由紀さんはその言葉に、わずかに眉をひそめて、唇を固くむすんだ。
「みっこ、この人は酒野美由紀さん。でも厳密には恋人じゃないんだ」
「あら、直樹さん。そういう言い方は相手に失礼よ。マナー違反だわ」
藍沢氏にそうやり返すと、みっこは美由紀さんに向かって左手を差し出す。
「よろしく。森田美湖です。もうお会いすることはないでしょうけど」
みっこの言葉に美由紀さんはかすかにかまえて、その手を握り返した。

藍沢氏は握手するふたりを、なにも言わずに見つめていた。
ふたりの間で藍沢氏は、とってもぎこちなく、居心地が悪そうにしている。
そんな彼がわたしには、オペラグラスを逆さに覗くように、小さく見えた。
みっこは握っていた左手をほどくと、藍沢氏を振り返り、とっても可憐で素敵な微笑みを浮かべながら、明るく言った。

「残念。あたしの負けだわ」

END

13th Jun. 2011

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