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Canary Ensis


 その日は7月に入って間もない、梅雨の合間のジリジリと焦げつくような日射しの一日だった。
川島君とわたしの前期試験がはじまる前の、最後の休日。
デートの途中で寄った、カフェでのできごとだった。
川島君とテーブルをはさんで、アイスクリームを食べていたわたしに、彼は一冊の雑誌のページを広げて、差し出して見せた。

「見て。以前投稿していた写真が『月刊フォトグラファー』の、一般部門金賞に選ばれたんだ!」
嬉しそうに言いながら、川島君が見せてくれた雑誌の一ページには、雨に煙った山の写真が大きく掲載され、『川島祐二』の名前と『金賞』の文字が、まぶしく輝いている。
「おめでとう。すごいじゃない!」
わたしはちょっぴり羨ましさを感じながら、川島君を祝福した。
九州文化センターで開催されている『小説講座』には、わたしはすでに1年近く通っているが、季節ごとに行われている小説コンクールでは、なかなか入賞できないでいる。
つい最近発表された3回目のコンクールでも、結果は前と同じく、最終選考どまりだった。
なのに川島君は、こんな立派な雑誌で賞をもらって…
なんだか先を越されちゃった感じ。

川島君の受賞作を見ていたわたしは、はっと息をとめた。
「この写真…」
その写真は、大きな山を大胆な構図で切り取っていた。
雨に煙った山々は、薄紫色のグラデーションを織りなし、シルエットだけが幻想的に浮かんでいて、山肌に散る桜の薄桃色が、アクセントにきいている。
「そう。春にみっこちゃんと三人で九重に行ったときのやつ。雨は残念だったけど、おかげで幻想的な写真が撮れたよ」
よく見ると、わたしとみっこのうしろ姿が、写真の隅に、おぼろげに写り込んでいる。
「わたしたちも写ってるのね」
「モデルありがとう。このふたりのうしろ姿が、いい味出してると思わない?」
「川島君、勝手に使ったらダメじゃない」
「え? ごめんよ。まあ、小さくしか写ってなくて顔は見えないから、『イメージ』ってことで…」
「そうだけど… わたしはともかく、みっこはプロのモデルなんだし…」
「これなら、だれだかわからないよ」
「そんな問題じゃないでしょ」
わたしがちょっと不機嫌になったのを素早く察知してか、川島君は努めて明るく言う。
「ごめんごめん。じゃあ、賞金が来たら、おふたりになにかおごってあげるよ」
「もう… みっこが怒っても知らないから」
「それはまずいなぁ」
「みっこからモデル料ふっかけられるかもよ。覚悟しといてね」
「そう言えばみっこちゃんのモデル料は、『友だちの彼氏料金』で割り増しだったな〜。怖いな」
川島君はバツが悪そうに笑いながらそう言って、氷の溶けかかったアイスコーヒーを一口飲み、話を続けた。
「でも、おかげでカメラマンへのステップを、ひとつ上がれたって気がするよ」
「よかったわね」
「自分の好きなものを撮って、それを評価されるのって、やっぱり嬉しいものだし」
「そうよね。好きなことをして人に認められるのって、難しいものね」
「ああ。カメラマンにも職人的なものと作家的なものがあるけど、最初から作家活動はなかなかできないしな」
「それだけで生活していくのって、大変なんでしょう?」
「そうだよな。ぼくも来春には卒業だし、これからカメラマンとしての就職活動も、やっていかないといけないから、今回の受賞は自信になったよ」
「卒業…」
「さつきちゃんの学生生活は、あと2年半あるけど、ぼくはもう半年しかないんだよ」
「そうか…」
「だから夏休みには、東京へ行こうと思ってるんだ」
「え? 東京?」

アイスクリームのスプーンを持つ手が止まった。わたしは思わず聞き返す。
意外な言葉。
川島君はなにを言おうとしているんだろう?

「実は、春にモルディブでいっしょに仕事をした星川先生から、『夏休みにこちらでバイトしないか』って誘われたんだよ」
「星川先生から?」
「すごいと思わないか? あんな一流の先生から、直接電話貰ったんだよ!」
「…」
「今回の受賞は、いいおみやげになったよ」
「バイトって、どのくらい行くの?」
「夏休みの間中だよ」
「ええ〜っ?! 一ヶ月半も東京に行っちゃうの?」
わたしが思わず大声を出してしまったものだから、川島君は驚いて弁解する。
「ごめん、さつきちゃん。だけどぼくはどうしても行きたいんだよ。こんなチャンスは、もう二度とないかもしれないんだ」
「…」
「星川先生は一流の写真家だから、その先生の元で一ヶ月以上も働けるのは、ぼくがカメラマンになる上での、とっても貴重な経験になると思うんだ」
「そんな経験なら、モルディブでできたじゃない?」
「そうだけど… わかってくれないかなぁ」
「そりゃ、川島君の言いたいことはわかるけど…
でも、川島君は東京でバイトできていいかもしれないけど、わたしはどうなるの?
せっかくの夏休みなのに、ずっと放ったらかしにされるの?」
「それとこれとは、話が別だよ」
「どこが別なのよ? ずっと会えないのはいっしょじゃない。それとも川島君は、わたしと会わなくても平気なの?」
「平気なわけがないじゃないか。ぼくだって夏休みの間、さつきちゃんに会えないのは寂しいし、随分悩んだんだ。だけど、こんなチャンスは絶対活かさなきゃと思うから、仕方ないんだよ」
そう言いながら川島君はちょっと考えるように黙ったが、なにかひらめいたかのように、瞳を輝かせて言った。
「じゃあ、さつきちゃんも、いっしょに東京に行こう!」
「一ヶ月半も? そんなの無理よ」
「向こうでバイトすればいいじゃないか?」
「住む所はどうするのよ」
「ぼくはマンスリーマンションかコーポを借りるつもりだから、いっしょに住めばいい」
「無理よ! うちの親厳しいから、そんなの許してくれるわけないわ」
「じゃあ、一ヶ月半が無理なら、何日かだけでもいいじゃないか」
「川島君、どうせ向こうで仕事三昧なんでしょ? 何日もわたしとデートしたりできるの?」
「そりゃ、休みなんかほとんどないようなものだけど、少しくらいならいっしょにいられるだろうし」
「少ししかいられないの?!」
「それは仕方ないじゃないか」
「さっきから『仕方ない、仕方ない』って、川島君はわたしよりも仕事を優先するのね」
「さつきちゃんだって、『無理、無理』って、ちっとも歩み寄ろうとしないじゃないか」

 そのあとはふたりとも,押したり引いたりで、会話は平行線。
わたしは、こんなときの女の子がよく口にするような台詞、
『わたしと仕事と、どっちが大切なの?』
ってのを、つい言ってしまい、ずいぶん川島君を困らせてしまった。
だけど、川島君の決心は固く、
『夏休みの間に、さつきちゃんが東京に来れる間だけでも、来てくれよ』
という彼の提案を、わたしは呑むしかなかった。
だって、それこそ仕方ないもん。
わたしは川島君が抱いている夢が好きだし、だれよりも、そんな夢を持っている川島君が好きなんだもの。
そのわたしが、彼の夢の妨げになるようなことは、できるわけないし、絶対したくない。

 そうやって、ちょっと険悪な雰囲気でスタートした今日のデートだったけど、わたしと会えない期間の埋め合わせをしてくれるかのように、今日の川島君は、いつもよりやさしかった。
たくさん話をしてくれて、ふだんよりいっそう、愛おしむようにキスをし、愛してくれる。
こうやって、やさしく川島君に抱かれて愛されていると、わたしの怒りも苛立ちも溶けていって、川島君を受け入れている快感だけが、からだの隅々にまで広がって、甘い気持ちになってくる。
そういうのって幸せなことだし、愛情も深まってきて、川島君のわがままも許せる気になってくる。
う〜ん。
でも、なんだかずるい気もするなぁ。
こうやって、からだを武器に懐柔するなんて。

 だけど、川島君に送ってもらった家の玄関先で、彼の赤い『フェスティバ』が走り去るのを見送ってしまうと、今日一日たくさんやさしくされた分、しばらく会えない現実に、余計に淋しさが募ってきてしまった。
今別れたばかりなのに、もう会いたい。
なのに、これからふたりとも試験期間に入るし、川島君とはしばらく、ゆっくりとは会えそうにない。

せっかく川島君と迎える、はじめての夏休みなのに…
海とか、山とか、川島君といろんな所に、行きたかったのに…
楽しい思い出がいっぱい作れると思って、ひそかに計画も立てていたのに…
なのに、そんなわたしのことは放ったらかして、川島君はひとりで、自分のしたいことをして、東京なんかに行くなんて…
わたしのことなんて、もう、どうでもいいの?
そりゃ、川島君はカメラマンになるのが夢であり目標で、それを追いかけたいのはわかるけど、それで犠牲にされるわたしの気持ちは、考えてくれたことがあるの?
入選した写真にしても、わたしとみっこが写っている写真を、断りもなく勝手に使うなんて。
川島君にこんないい加減で、自分勝手な面があったなんて…

あ… いけない!
思考回路がどんどんネガティブになっていってる。

「ま… いいか。去年みたいにみっこと遊ぶかな」

玄関の引き戸をうしろ手で閉めながら、わたしはそんなひとりごとをつぶやいた。
気分はすごく落ち込んでいるんだけど、なんとか気持ちを切り替えて、わたしは川島君抜きの夏休みを過ごすようにしなきゃいけない。


 みっこからその話を聞いたのは、川島君とそんなやりとりをしたデートの次の日。講義の合間に寄った、いつもの大学のカフェテリアでだった。

「みっこは夏休みはどうするの? 去年みたいに、またふたりでバカンスしようよ」
「…ん。それなんだけど…」
彼女はペットボトルの『午後の紅茶』を飲みながら、少し言いにくそうに首をかしげ、切り出した。
「実はあたし… 夏休みの間、東京の家に戻ろうと思ってるの。モデルの仕事もいろいろ入ってきたし、この夏は頑張って仕事して、今までのブランクを取り返さなくちゃいけないし」
「ええっ? みっこも東京に行っちゃうの?! わたしひとりだけ、取り残されるってこと?」
「どういうこと?」
みっこは訝しげに尋ねる。わたしは昨日の川島君とのいきさつを、彼女に話した。
「そう? 川島君、星川センセのとこに来るんだ…」
「そうなのよ。だからみっこまで東京に行っちゃったら、わたしはひとりで『福岡で留守番』ってことになるのよ」
「さつきとはとってもバカンスしたいんだけど、でも、あたし… もう仕事入っちゃったから、東京に戻らないと…」
「…」
わたしはみっこのことを『東京に行く』と話すのに、彼女は『東京に戻る』と答える。
みっこはやっぱり、東京の人なんだ。
福岡の大学には、ただ、なにかを探しにやってきただけなんだ。
みっこの探していたものは、やはり、東京にある。
彼女の言葉のなかに、そんなニュアンスを読みとってしまったわたしは、もうそれ以上、なにも言えなかった。


 川島君は新幹線で、そしてみっこは飛行機で、それぞれ交互して東京へと発(た)って行った。
わたしはふたりを駅や空港で見送ったあと、『ふぅ』と大きくため息をついた。

『淋しい夏休みになりそう』
『川島君とみっこが、東京にいる』

そんな予感と、漠然とした不安…
ふたつの心をかき乱す感情が、わたしの中で交錯し、胸を締めつけていた。
川島君は『毎日電話するから』と言って、下宿先のアドレスと電話番号を書いたメモをくれたし、ふたりとも別々の所にいて、別々のスケジュールをこなすんだろうけど、それでもわたしの不安は募っていくばかり。
みっこを空港まで見送った帰りのバスの中で、わたしはいろんな可能性を考えていた。

川島君とみっこが、東京で顔を合わせないってことが、あるかしら?
川島君は星川先生のところで働いているんだし、みっこはその先生と、仕事をすることがあるかもしれない。
そうすれば、川島君とみっこはいっしょに仕事をすることになって、仕事が終わると、みんなで食事とか飲みに行くかもしれない。
そうなると、川島君とみっこは、もっと親密になるだろう。
ふたりとも気さくな性格だから、そのあとは個人的に連絡とりあって、川島君がみっこを食事に誘うってこともあるしれないし、ひょっとしてみっこの方から、川島君を誘うかもしれない。
そうなるとふたりとも、もっと仲良くなって、それ以上のことも起こるかもしれない。

いや…

そもそも、星川先生が川島君を東京に呼んだのは、みっこに頼まれたからかもしれない。
そうでも考えないと、そんな一流の写真家が、いくら『気に入った』からって、地方の一学生を、わざわざ東京に呼んだりするはずないじゃない。
もしそうだとしたら…

この場合、全部わたしの『〜かもしれない』って妄想ばかりなんだけど、わたしはこの長い一ヶ月半の間で、川島君とみっこが、わたしの目の届かないところで親しくなるのが、なによりも怖かった。

「仕方ないわ。せっかくの夏休みだから、わたしもあまり川島君やみっことばかりベタベタしてないで、他の友だちとバカンスしよっ!」
そんな強がりを言って、わたしは家に帰るとさっそく、思いつく友だちに電話していった。

 

 今年の夏休みは暑苦しいばかりの、なんとも味気ない、退屈で、悶々としたバケーションだった。
川島君からの電話は、最初のうちは約束どおり毎日かかってきたものの、仕事や電話代を口実に、かかってこない日も増え、話している時間も、少しずつ短くなっていった。
時折かかるみっこからの電話も、わたしのフラストレーションを、なにも解決してくれない。

 一日一日が、ただぼんやりと過ぎていく。
気晴らしにわたしも、ファーストフードのアルバイトをはじめてみたけど、ただ忙しいばっかりで、ちっとも心が晴れることはない。
バイトの男の子に、『遊びに行かないか?』って誘われたこともあったけど、とてもそんな気分にならなかった。
こうしていると、川島祐二と森田美湖というふたりの人間が、わたしにとっていかに大きな存在だったのか、ふたりがいなくなって、改めて思い知らされた気分。
これは他のなにでも、だれでも、埋めることはできないのかもしれない。
わたしは、8月のカレンダーに、消化した日々を機械的にチェックつけていきながら、そんなことばかり、毎日考えていた。

そんなバツ印が、カレンダーの半分以上を埋め尽くした頃、わたしはやっと決心した。
この不安を根本から解決するには、そうするしかない。

「わたしも東京に行こう!」

そう決めたわたしは、ふたりにアポイントを取り,『みっこの家に泊めてもらうから』と言って、渋る両親を説得して、一週間くらいの滞在予定を立て、8月下旬に新幹線で福岡をあとにした。



「いらっしゃいさつき! 待ってたわ」
電車の発着を告げるベルと、たくさんのビジネスマンが行きかう、慌ただしい東京駅のプラットホームで、みっこは目ざとくわたしを見つけ、大きな声で呼びかけ、手を振って迎えてくれた。
「ごめ〜んみっこ。わざわざ迎えに来てもらって」
わたしは大きなバッグを両手に持って、みっこの方へ歩み寄る。
「いいのよ。わたしも今日はオフだから」
「ほんとにいいの? わたしずっとみっこの家に、泊めてもらって」
「もちろんよ。パパにもママにも、さつきのことは話しているわ。ママには、『さつきがモデルに復帰するきっかけをくれた』って話したから、あの人すっかりあなたのこと、気に入ってるみたいよ」
「ええ〜っ。困るよそんなの。わたしなんにもしてないし」
「いいのいいの。でもさつきん家(ち)って、厳しいのね。なかなか許してもらえなかったんでしょ?」
「東京に一週間も行くんだから、どこに泊まるのか、親としては心配するわよね」
「まさか、『彼氏ん家に泊まる』なんて言えないしね。まあ、ほんとはそうしたいんでしょうけど」
「そりゃ、それもあるけど… でもわたし、みっこのお家にも行ってみたかったし」
「歓迎するわ」
そう言って、みっこはとびきりの笑顔をわたしに見せる。久し振りだなぁ、この笑顔。
こうして東京のたくさんの人のなかで見ても、やっぱりみっこって綺麗で、ひときわ目立つ存在よね〜。

 わたしたちは都会の喧噪の中で、少し大きめの声で話しながら、ターミナルの地下を足早に歩く。
東京の人たちはみんな忙しそうで、ビジネスマンもOLも、わき目もふらずにシャカシャカ歩いている。
『東京と福岡じゃ、時間の流れる速さが違うみたいだな』
そんなことを考えながら、わたしの足どりも、自然と速くなっていた。
 山手線の車窓から見えるたくさんの線路は、いろんな色の電車が並んではすれ違っていき、JRだけじゃなく、たくさんの私鉄も並行して走っているらしく、テレビで見たことあるような変わった電車が、あちこちの駅に止まったり、トンネルへと消えていったりしている。
どこまで行っても大きなビルが続き、高架から見えるはるか向こうの景色も、やっぱりビル。
この街には人だけじゃなく、モノも知識も情報も、福岡とは比べ物にならないくらい集まっていて、膨大なエネルギーに溢れている。
みっこの家は、そんな都心から少し離れた、新宿から電車で30分ほど行った中央線沿いの駅から、歩いて10分くらいの所にあった。

「やっと着いた? なんだか疲れちゃった。人ばっかり多くって」
わたしは東京が発散するエネルギーにいささかうんざりしながら、みっこの家の門をくぐった。
「あは。でも、あたしの家のまわりは、わりと静かでしょ?」
「そうね」
確かに、みっこの家のあるあたりは、静かなたたずまいの住宅街だった。
それも高級住宅街らしく、大きな洒落た家がずらりと並んでいて、車庫や駐車場に止めてあるクルマは、どれも外車や高級車ばかり。森田家も例外ではなく、広い敷地にはポプラの樹が生い茂り、ドーマ(屋根の明かり採り窓)のある二階建ての洋館の壁には、蔦がからまってて、まるで映画に出てくる外国の家みたいで素敵。

「いらっしゃいさつきさん。遠いところからお疲れだったでしょう?」
エントランスに入ると、とっても綺麗で背の高い、趣味のいいホームドレスを着た、上品そうな女の人が迎えてくれた。
「ママよ」
みっこはそう言って、わたしに紹介する。
「あっ。はじめまして、弥生さつきです。お世話になります」
わたしはドギマギしながら挨拶する。いつかみっこの部屋の写真で見たとおりというか、それ以上に本当に綺麗でスタイルのいいお母さんで、なんだか圧倒されてしまう。
「どうぞ。ゆっくりしていって下さいね」
そう言ってみっこのママはニッコリと、とっても素敵な笑顔を浮かべる。
う〜ん。この笑顔、みっこに似ている。やっぱり親子だなぁ。
「じゃあ、さつき。あなたには二階のゲストルームを使ってもらうわね。こっちよ」
みっこはわたしのバッグを持ちながら、エントランスの階段を軽くかけ上り、上から手招きする。
吹き抜けになったエントランスのすぐ脇には、二階への階段があって、上の部屋はそれぞれのプライベートルームになっているらしい。一階の両開きのドアの向こうには、リビングルームやダイニングルームが見える。

 わたしが案内されたゲストルームは、二階のつきあたりの、8帖ほどある南向きの綺麗な洋室。
部屋にはセミダブルベッドがひとつと、鏡台のついたチェストに椅子、それに作りつけの大きなクロゼット。家具や建具は木目調で統一されていて、同じ木を使った部屋でも、うちの日本家屋とはずいぶん雰囲気が違って、おしゃれ。
「へえ。まるでホテルのお部屋みたい」
わたしは感心して、部屋を見渡した。ゲストルームをちゃんと持っている家なんて、なんだかすごいなぁ。
「ふふ。ホテルと違うところは、料金をとらないところ。それから、ベッドメイキングなんかは自分でやるところよ。そのクロゼットの中に、シーツと毛布とピローケースが入っているから、使ってちょうだい。あとはさつきが好きなようにしてね。落ち着けそうかな?」
「もちろんよ。ずっと住みたいくらい」
「あは。あたしの部屋はとなりよ。ひとり寝が寂しくなったら、いつでも夜ばいに来てちょうだい」
そう言って、みっこは軽くウィンクした。

 その夜は、みっこの家で食事をよばれた。
みっことダイニングルームに降りていってテーブルにつくと、食事の支度はだいたい整っていて、キッチンではみっこのママが、オーブンレンジの様子を見ている。
なんだか、ただ座っているのもバツが悪いので、わたしはキッチンのみっこママに声をかけた。
「あの。わたし、手伝いましょうか?」
「いいんですよ」
みっこママはそう言って微笑みながら、みっこの方を見る。
「みっこはこっちに来て、ちょっとお皿を出してちょうだい」
「今日はママが、得意料理をごちそうするって、朝から張り切ってたのよ。さつきはゆっくりしててね」
みっこはわたしの肩をぽんとたたいてそう言うと、キッチンへ入っていった。
わたしはやることもなく、なんとなくあたりを見渡す。
20帖ほどもあるようなリビングダイニングルームには、食卓テーブルの他には、ふかふかのソファにリビングテーブル。大きなテレビはしっかりした木製のサイドボードに納められ、壁には煉瓦を積み上げたマントルピースがある。
うちの家の居間にも、サイドボードが置いてあるんだけど、その上にはどこかへ旅行に行ったときのお土産の人形とか、こけしとか彫り物とか、民芸調のお皿なんかが溢れるほどに置いてあって,飾ってるというよりは『がらくた市』って感じだけど、みっこの家は、インテリアや雑貨も上手に並べてあって、センスのよさを感じるな。

「やあ、いらっしゃい」
わたしがあたりを眺めていると、太い、張りのある低い声がして、リビングルームの扉から、初老の紳士が現れた。
みっこのパパだわ。
そう分かったのは、その人がいつか見た写真と同じ人物だったのと、余裕のある落ち着いた仕草が、この洋館に馴染んでいたからだった。
「あ、はじめまして。弥生さつきと申します」
「さつきさん、だね。大学ではみっこがすっかりお世話になっているようで、どうもありがとう」
「い、いえ… 世話になってるのはわたしの方で。ロ… ロケとかにも連れていってもらったりして、いろいろありがとうございます」
なんだか緊張して、思わず声がうわずってしまう。だってみっこパパって、まるで校長先生みたいな貫禄を、醸し出しているんだもの。
「さつきぃ〜。お礼ならパパにじゃなく、あたしに言ってよ〜。パパはなんにもしてないんだから〜」
キッチンからひょいと顔を出して、みっこがわたしに明るく言う。やっぱりこの子は、人の気持ちをよく察してくれるな。おかげで少し、緊張がほぐれたみたい。
「はは。ご覧のとおり、みっこはわがままな子でね。さつきさんにもずいぶん迷惑かけたんじゃないかな?」
「そんなことないです。みっこと… 美湖さんといると、いつもドキドキワクワクさせられて、大学生活もとっても楽しくしてもらってます」
「ドキドキワクワク? わたしなんかどちらかというと、みっこには『ハラハラひやひや』させられてるがなぁ」
「あ。わたしも結構、ハラハラすることもあります。美湖さんの行動には。でもそこがスリリングっていうか、楽しいですけど」
「あはははは。いつものように、『みっこ』でいいよ」
そう言ってみっこパパは愉快そうに笑う。『大陸的』と表現したいような、包容力があって、大きな微笑み。みっこを膝に抱いていた写真からもわかるように、大きく人を見守れそうな感じがして、安心してしまえる。
「あ。これ」
わたしは福岡からおみやげを持ってきていたのを思い出し、みっこパパに差し出す。
「つまらないものですけど、みなさんで召しあがって下さい」
「おや。ありがとうさつきさん。気を遣ってもらって、すまないねぇ」
そう言ってみっこパパは、『福砂屋』のカステラの入った紙袋を受け取る。
「あら? 『辛子明太子』じゃないのね? 福岡のお土産っていえば、『明太子』ってイメージがあるんだけど」
みっこがテーブルにお皿を並べながら、紙袋を見て言った。
「夏場は明太子はすぐに悪くなるから、日持ちのするカステラにしてみたの」
「『福砂屋』のカステラだね。わたしは長崎に行くと、必ず買って帰るんだよ。旨いんだよね、この底についたザラメの砂糖が。ほんとうにありがとう」
「パパ、カステラ好きだもんね」
「九州は気候も穏やかだし、おいしい食べ物がたくさんあって、いい所ですねぇ。フグやクジラが、ふつうのスーパーで買えるのには、びっくりしましたよ。馬刺も美味しいし」
「パパ、相変わらず食いしんぼなのね。そんなだからこのおなかが引っ込まないのよ」
みっこはそう茶化して、パパのおなかをポンとたたく。
みっことパパとは、ほんとに仲いいんだな。
みっこママとの間には、ちょっとピリピリしたものを感じるけど、それは仲が悪いってわけじゃなく、むしろ『師弟関係』か『ライバル関係』って風に感じられるかな。

「さあ、お待たせしました、さつきさん。おなかすいたでしょう?」
みっこママはそう言いながら、大きなお皿をミトンで掴んで、ダイニングルームに運んできた。
「わぁ、キッシュですね。わたし大好物です!」
わたしはテーブルに置かれた、ほうれん草とベーコンの美味しそうなキッシュを見て、思わず興奮して言ってしまった。みっこママは嬉しそうに微笑む。
「あと、ガスパチョも作ってみたわ。みっこ。キッチンにサラダがあるから、運んでちょうだい」
「あ。わたしも運びましょうか?」
「いいのよ。さつきはお客さんなんだから、そこに座ってて」
みっこはそう言って、キッチンからサラダを持ってくる。みっこママは、キッシュを取り分けながら、ひとりごとのように言う。
「そうですよ。こんなときでないと、みっこは手伝ってくれないんだから。さつきさん、みっこはそちらではなに食べてます? インスタントやファーストフードばかりじゃないでしょうね?」
「さつきがうちに遊びにきたときは、なにか作ってくれるわ。さつきって、料理がとっても上手なんだから」
「もうっ、この子はみっともない。ごめんなさい、さつきさん。こんななんにもできない子で」
「あ〜っ。ママそれはひどいんじゃない? あたしだって福岡でひとり暮らしするようになって、少しは家事も覚えたんだから」
「ははは。そう言うママだって、新婚の頃は家事が苦手だったじゃないか。だからわたしが料理を作ってやっていたんだよ。ママもなんにもできなかったから」
みっこパパがそう言って、みっこに助け舟を出す。ママは真っ赤になって、恥ずかしそうに頬に手を当てた。
「いやですわパパ。そんな昔のこと、人にバラさないで下さいよ」

 

「どうだった? あたしのパパとママ」
「うん。とっても素敵な人たち。ほんとに仲いいのね」
「でしょ。自慢の両親よ」
「あは。それって、なんだか逆ね」
「ママもね。あたしがモデルの仕事を再開したら、福岡に住むことを許してくれるようになったの。相変わらずお小言は多いけどね。パパからの仕送りのことは、やっぱりバレちゃってたけど、それももう公認って感じになって、これからは平和な大学生活が送れそう」
「よかったじゃない。やっぱり家庭内でゴタゴタしてたら、仕事にも勉強にも、身が入らないもんね」
「まあ、東京と福岡の掛け持ちで、忙しくなるでしょうけどね」

 食事が終わって、デザートにしっかり『福砂屋』のカステラを、紅茶といっしょに頂いたあと、わたしたちは、二階のみっこの部屋でくつろいだ。
彼女の部屋は、いろんなものを福岡に持っていっているせいか、どことなく殺風景で、本棚とローボードには、隙間が目立っている。
みっこは綿のキャミソールにショートパンツのラフな格好で、ベッドの上で大きなクッションにもたれかかり、綺麗な脚をゆったりと伸ばしている。わたしもそのとなりに、腰をおろして話す。みっこのベッドはスプリングがしなやかで、ふかふかな感触がとってもいい気持ち。
楽しいひとときと、これでようやくみっこに会えて、明日には川島君と会う予定もできたおかげか、わたしの不安も、今は少し落ち着いていた。

「みっこは夏休みの間、どんな仕事したの?」
「そうね… 単発もののテレビCF(コマーシャルフィルム)を2本撮って、その関連でスチール撮ったり。あと、ショーにも出たわ」
「すごい! どんなショーなの?」
「ダンスでファッションを見せる感じで、あまり身長要求されなかったから、あたしでもよかったみたい」
「なに言ってるの。ダンスもショーもできるみっこに、ぴったりじゃない」
「ふふ。でもそういうイベントって、ライブ感があって、ドキドキして楽しかったわ。あとは、カタログの仕事とか、雑誌の撮影とか。あ、ポラとか写真とか貰ったけど、見る?」
「見る見る!」
みっこは本棚からアルバムを引っ張り出して、ページをめくる。冬物のお洒落な衣装を纏ったみっこや、ステージ上で服を揺らしながらダンスしているみっこの写真が、何枚も貼っていた。
「この猛暑の中で秋冬物の撮影だなんて。ほとんど拷問よね〜。しかも汗かいちゃいけないでしょ。もう大変だったわよ」
「わぁ〜。それって鬼のような仕事ね。でも可愛い〜っ! 真夏に撮ったなんて、全然わかんない」
「そこはプロの意地かな」
「そういえば、アルディア化粧品の夏のCMが、今よく流れてるわね。モルディブで撮ったあのときのものが、こうやってテレビで見れるって、なんか感動しちゃった」
「アルディアは、今年いっぱいキャンペーンガールとして契約してるから、CFもまだ何本か撮るし、関連イベントとかにも狩り出されて、けっこう忙しいのよ」
「そうなんだ」
「でもあたし、アルディア以外の仕事もしたい」
「どうして?」
「あたし、小さいときに、ママといっしょにアルディアのコマーシャルに出てたの。それでアルディアの人には可愛がってもらえて、オーディションに受かったとはいっても、今回のお仕事は、その縁で頂いたような気がするのよ。でも、それって親の七光りみたいで、あたしのモデルとしての、ほんとの力じゃないような気がして」
「でもみっこは、他にもいろんな仕事してるじゃない。それに星川先生も藤村さんも、みっこのことは『最高のモデルだ』って、褒めてたわよ」
「…ん」
みっこはクッションを両手で抱え込んで、言おうか言うまいか、迷っている風だったが、おもむろに口を開いた。
「実は… 『女優やらないか』って、誘いがあるの」
「女優?」
「ん」
「すごいじゃない! やったらいいじゃない! みっこをドラマとか映画で見れるなんて、すっごい感激しちゃう!」
「…」
興奮するわたしをよそに、みっこは浮かない顔で頬杖つくと、視線を窓の外の夜景に移した。住宅街とビルの隙間から、都心の高層ビルのイリュミネーションが、蜃気楼のように揺らめき、瞬いている。
「女優って、そんなに悩むような仕事なの?」
わたしは迷っているみっこに訊いた。
「ありがたいお話しなんだけど… 今のモデルの仕事を、納得いくまでやってからでないと」
「でも、女優をしながらでも、モデルはできるんでしょ?」
「そうだけど… まだあたしには、女優をやれるほどの演技力はないと思うし…」
そう言って、みっこは続けた。
「それに、今はいろんなこと考えてて、まだ決心がつかないの」
「いろんなことって?」
わたしは反射的に、彼女の恋愛を思い浮かべてしまった。
それってやっぱり、藤村さんのこと?
「みっこは東京に戻ってきて、藤村さんに会ったの?」
突然、藤村さんの名前を出したわたしを、怪訝そうに見つめて、みっこは答えた。
「文哉さん? 会ったわよ」
「それで?」
「それでって…」
「いや… どんな風に会ったのかなって…」
「どんなって。ふつうに仕事で会ったわよ」
「そっか」
「…さつき。なに考えてるの?」
「ううん。別に…」

みっこは相変わらず、彼女が『好きになった人』の話題を、口にする気配がない。
確かに藤村さんとの恋愛は、いわゆる『不倫』で、それは堂々と人に言えることじゃないだろうけど、せめてわたしにくらいは、話してくれてもよさそうなもの。
もちろん、わたしじゃなんの力にもなれないけど、話くらいは聞いてあげられるし、人に話すことでみっこの気持ちが少しは楽になるのなら、わたしに打ち明けてほしい。
だけど、わたしの方からあんまり追求してしまうと、モルディブでわたしが、彼女と藤村さんの密会を見たことが、みっこにバレてしまうかもしれない。わたしはそう思って口を噤み、他の話題を探した。

「そういえばみっこ。東京で川島君と会った?」
さりげなく切り出したつもりの話題も,やっぱりわたしが今いちばん気になっていること。
それを直接みっこに訊くことに、なんとなく躊躇いを感じてしまったけど、口にしてしまったものは、もう元には戻らない。

みっこと川島君を見送ってからの一ヶ月間、わたしの頭の中で、ふたりは何度も会い、デートをし、ときにはキスや、それ以上のことさえすることがあった。
それがわたしの、ただの『妄想』だとは、わかっている。
わかってはいるんだけど、そんな妄想を繰り返すうちに、現実との区別が曖昧になってしまい、気持ちは乱されて、わたしはみっこや川島君に対して,不信感を抱いてしまうようになっていた。

わたしの言葉にみっこは、『意外』というように、一瞬瞳をかすかに見開いて、答えた。
「川島君? 会ったわよ」
「仕事で?」
「もちろんよ。星川センセのところで、2回くらい撮影したから、そのとき会ったわ」
「それで… どうなの?」
「どうって… 川島君、相変わらずキビキビと動き回っていたわよ」
「そう…」
「ふふ。センセ、川島君には、厳しく怒ってたわ」
「えっ? 川島君、怒られてるの? なにかヘマしたの?」
「星川センセ、川島君にはすごく期待してるみたい」
「どういうこと?」
「星川センセはね、みどころがあると思った人には、とっても細かく注意して、厳しいのよ。『鉄は熱いうちに打て』が、センセのポリシーだものね」
「へぇ〜。あんなやさしそうで、いつもニコニコしてる先生が? なんか信じられない」
「星川センセって、物腰はすっごく柔らかいけど、ほんとは硬派なのよ。でも川島君もそれに耐えて、よく頑張ってるわ。尊敬しちゃう」
「尊敬、か…」
「いいわねさつき。あんな人が彼氏で」
そう言いながら、みっこはニッコリ微笑んだ。
みっこが川島君のことを、そんな風に言ってくれるのは嬉しいけど、わたしは心のどこかで、別の意味を探っている。
去年、川島君との恋をみっこに相談していたとき、彼女は『友だちでいたいのなら、あなたの気持ちは完璧に隠しておいた方がいい。その上で、チャンスを待つこと』なんて、アドバイスしてくれた。
それがみっこの、恋愛のポリシー。
そして今、彼女は川島君への恋心を完璧に隠して、『ただの友だち』として振る舞っているともとれる。
その上でみっこは、川島君と親しくなるチャンスを伺っているのだとしたら…

う〜ん…
なんだか妄想がひどくなってるなぁ。
みっこに会えて、安心できたというのに…
最近のわたしたちの友情は、川島君が関わると、ギクシャクしてしまうみたい。

ううん、そうじゃない。
春に三人で由布院にバカンスに行って以来、わたしがみっこに対して、川島君のことでコンプレックスを抱くようになってしまったからなんだ。

そりゃみっこには、出会ったときから漠然とコンプレックス持っていたけど、わたしが川島君とつきあいはじめて、それが明確になってきた気がする。
川島君はわたしのことを、『いちばん好き』って言ってくれるし、みっこも川島君のことは、ふつうに喋っている。なにも不安に思うことはないはずなのに、やっぱりわたしのコンプレックスは、拭いきれない。
だから、みっこにも川島君にも、答えが怖くて、なにも訊くことができない。
なんだか落ち込むなぁ…

「そう。さつきに渡したいものがあるの」
みっこは、わたしの不安を振り払ってくれるかのように、微笑んで立ち上がると、机の引き出しから、リボンのかかった小さな箱を出してきて、わたしに差し出した。
「遅くなっちゃったけど、Happy Birthday!」
「えっ? あ、ありがと」
「こないだディズニーランドに行ったの。そのときに買ったのよ」
「へぇ! 開けていい?」
「どうぞ」
小箱から出てきたのは、ミッキーマウスの腕時計。
だけど、みんなが知っているイラストのような、あの派手な赤い色のキャラクターの時計じゃなく、渋い銀色の文字盤にミッキーの顔が彫っている、クラシカルなデザインだった。これなら子供っぽくもないし、お洒落な服や、それこそ去年、みっこがプレゼントしてくれたワンピースなんかにも、さりげなく合いそう。
「ふふ。実はあたしとペアなのよ」
そう言いながら、みっこはジュエルケースから同じ時計を出して、わたしに見せ、ニッコリと微笑んだ。

たまらないなぁ…

わたしがみっこと川島君のことを疑心暗鬼して、煩悶してるときに、みっこはわたしの誕生日を覚えてくれてて、こうしてプレゼントを買ってくれている。
みっこはいつも、わたしのことを気にかけてくれてるってのに、そんな彼女を疑うなんて、なんだか申し訳ない。
やっぱりわたし、みっこが好き。
どんなことがあっても、この友情は大切にしていきたいって、心から思う。

「ありがとうみっこ。大事にするね」
「それにね、サプライズもあるのよ」
「サプライズ?」
「そのときまで、ないしょ」1
「え〜っ? そんな、気になるじゃない」
「…なんてね。実はね、明後日(あさって)からみんなで、『信州の方に泊まりに行こう』って言ってるの」
「信州?」
「2泊3日よ」
「みんなって…」
「さつきとあたしと、藤村さんに川島君」
「え? 川島君、そんなのひとことも言ってなかった」
「だから、みんなからのサプライズなんだって。さつきのバースディ・トリップってわけ」
「ええっ!?」
「文哉さんに、『さつきが来る』って言ったら、『さつきちゃんのお誕生日祝い』って計画してくれてね。川島君も乗り気だし、星川センセも特別に、川島君に休みくれるんだって。もちろん、さつきの旅行代は、文哉さん持ち」
「え? そんな…」
「さつき、なにか予定あった?」
「そんことないけど、なんだか悪いなって…」
「いいのよ。みんなからの気持ちなんだから」
「うん… 嬉しい」
わたしはちょっと、頬が赤くなってしまう。
こういうサプライズって、なんだか感激。
みんな、わたしのことを考えてくれてたなんて…

だけど…

『川島君も乗り気』ってことは、みっこは川島君と、そういう話をしたってことよね?
仕事中にそんな話ができるはずないし、じゃあ、いつどこで、そんな話をしたの?
そりゃ、仕事が終わって、みんなと雑談しているついでに、話せることかもしれないけど…

「出発は明後日。9時半に新宿西口に集合よ」
わたしの小さな疑惑にはお構いなしに、みっこは明るくそう言って、ニッコリ微笑んだ。

 次の日の川島君とのデートは、とっても短いものだった。
その翌日から旅行で仕事を休むということもあって、残った仕事を今日中に片付けないといけないらしく、川島君に会えたのは、もう夜の9時を回った頃。
わたしたちは星川先生の事務所のある新宿で待ち合わせ、近くのファミレスで慌ただしく食事をすませただけで、久し振りの再会の感動に浸る暇もなく、川島君はわたしを、みっこの家の前まで送ってくれた。
ほんとはみっこの言うように、川島君の家に泊まりたかったんだけど、明日からの旅行の準備もあることだし、わたしはまだいっしょにいたいのをグッと我慢して、みっこの家の前で軽くキスをして、川島君におやすみを言った。

 

 その翌日、わたしとみっこが、川島君と藤村さんと新宿西口で落ちあったのは、朝の通勤ラッシュがようやく終わった、9時半くらいだった。

「おはよう、川島君」
「おはよう。みっこ」
「やあおはよう。二十歳の誕生日おめでとう、さつきちゃん」
「藤村さん、ありがとうございます」

そんな風に、朝の挨拶を終えたあと、わたしたちは新宿駅のホームへ移動した。
藤村さんの計画では、新宿10時発の特急『あずさ』9号で上諏訪まで行き、そこでレンタカーを借りて、霧ヶ峰から美ヶ原高原をドライブ。その日は白馬のオーベルジュに泊まって、次の日は上高地に移動。上高地のホテルに宿泊して、一日のんびりと過ごしたあと、松本を通って帰ってくるというものだった。
予定としては少なめだったけど、『避暑地のバカンスは、スケジュールを詰め込むのは野暮』なんて、みっこが例の調子で言うので、こういうまったりしたスケジュールになった。

新宿を定時に出発した『あずさ9号』は、中央本線を快調に西へ走る。
「わぁ〜。富士山って、静岡側から見るのと山梨側から見るのじゃ、全然感じが違うのね」
『あずさ』の車窓を流れる富士山に目をやり、わたしは『お〜いお茶』を飲みながら言った。
「ほんと。高いだけでなんだか普通の山だな。そう言えば、どんな絵でも写真でも、富士山って海側から見たものしかないような気がするな」
隣に座っている川島君も、窓に身を乗り出しながら、相づちを打つ。
「花びらが散ったあとの桜とか、山梨側の富士山とか、綺麗なものや有名なものでも、見せたくはない側面があるものだよ」
「あら、文哉さん。それって山梨の人に失礼よ。どこから見ても富士山は富士山でしょ。それに『花びらが散ったあとの桜』だなんて、昔のフォークソングの歌詞のもじり?」
「相変わらずつっこみが厳しいなぁ、みっこちゃんは。フォークはぼくの青春だったからね。『かぐや姫』や『風』の音楽は、人生の悲哀に寄り添ってくれた、空気みたいなものだったよ」
「さすが、おじさんの蘊蓄(うんちく)は奥が深いわね」
「みっこちゃんの毒舌も、根が深いよ」
「ふふ。でもあたしも、その頃のフォークソングって、好きよ。なんだか切なくて、ほのぼのしてて」
「みっこちゃんみたいな若い女の子でも、そう感じてくれるなんて、嬉しいなぁ」
藤村さんとみっこは、そんなやりとりをしながら、笑いあっている。その光景は、モルディブのときそのまま。
だけど、わたしの前に並んで座るふたりを見ていると、今は『歳の離れた兄妹』とか『親子』じゃなくて、なんとなく『恋人同士』に見えたりするのは、やっぱりあんな光景を目にしてしまったからかなぁ。
今度のプチバカンスにしても、『わたしの誕生日のサプライズ企画』ってのはただの口実で、ほんとの目的は、『みっこと藤村さんがいっしょに行きたかった』からなんて、勘ぐってしまう。
今回の旅行でも、モルディブみたいなことが起こるのかしら?

やだ。
わたしったら、また、さっきからつまんない妄想ばかりしてる。
この旅行はみんなからの好意なんだもの。
楽しまなくちゃね。

「今度のバカンスは、文哉さんがさつきの費用を、全部出してくれるんだって」
みっこがわたしにそう言うと、藤村さんはそれを補うように言った。
「二十歳(はたち)の誕生日プレゼント代わりだよ」
「みっこから聞いたんですけど、ほんとにいいんですか?」
「もちろんだよ」
「あ、ありがとうございます」
「だけど、よく考えたら、さつきちゃんは川島君に会いに、わざわざ福岡から出てきたんだろ? それなのに今回は、ふたりの邪魔するようなことしちゃって、悪かったかな」
「そんなことないです。わたし、信州って行ったことなかったし、とってもいい所だって聞いてたから、このサプライズはすごく嬉しかったです。ほんとうにありがとうございます」
「いやいや。そう言ってもらえれば、嬉しいよ」
「それに、この旅行のことがなかったら、星川センセも、川島君を休ませてくれなかったと思うわ」
みっこが川島君のことを口にしたので、わたしは無意識に川島君に目をやる。
「はは、そうなんです。藤村さんがこの旅行の計画を立てて下さったおかげで、星川先生も休みをくれたから、ラッキーでした」
川島君は笑いながら答える。みっこもそんな彼を見て、微笑んだ。
「川島君、星川センセのところでこき使われてたものね。今日は久々のオフじゃない?」
「そうなんだよ。特にこの四・五日は、今日の休みのために、普段の倍くらい働いたかな。徹夜もしたし」
「川島君、タフね〜。そう言えば、昨日のデートでも、さつきをあたしの家の前まで、わざわざ送ってくれたんでしょ?」
「ああ」
「うちに寄っていけばよかったのに」
「まあ… 夜も遅かったし」
「なんなら、泊まっていってもよかったのよ」
「ははは。みっこはすぐに、そんな人をドキッとさせる冗談を言うもんな」
川島君はそう言って笑いながら、手にしていた缶コーヒーを飲み干した。

 バカンスは順調にスケジュールをこなした。
わたしたちは上諏訪駅で『あずさ』9号を降り、レンタカーに乗り換えて、霧ヶ峰に向かう。
夏の高原の空は、どこまでも抜けるように青く、遠くには富士山も見える。
わたしたちは霧ヶ峰の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込み、白樺湖のほとりを散歩したり、写真を撮ったりしたあと、美ヶ原高原のビーナスラインを通って、夕方には白馬のオーベルジュ、『トロイメライ』に着いた。

「綺麗なオーベルジュでしょ。雑誌に載ってる写真見て、あたしここには一度、泊まってみたかったの」
みっこはクルマを降りると、荷物を下ろさないうちからペンションの前庭を、弾むような足どりでまわる。
『トロイメライ』は、屋根にドーマのある二階建ての、ドイツの田舎風のオーベルジュ。
『オーベルジュ』というのは、『宿泊設備を備えたレストラン』のことだと、みっこが説明してくれた。
建物の前に広がる庭は、明るくて綺麗な白樺林になっていて、青々とした芝生のところどころに、真っ白なガーデンテーブルと椅子が並べられ、まるで童話に出てくるような、素敵な景色だった。

“カシャカシャン”
そのとき、固いメカニックな金属音が、静かな森に響いた。
庭の白い椅子にうっとりと座っていたみっこは、その音で振り向く。川島君がみっこを撮ったのか。
「あ、川島君。もっと撮って」
そう言いながらみっこは、軽くポーズをとる。
椅子に腰かけてテーブルに肘をついてみたり、木の幹に手をかけてクルリと回ったり。
真っ白なロングスカートが、ふわりと揺れて、メルヘンティックなバックとよく似合っている。
「さつきもいっしょに撮ろ!」
そう言いながらみっこは、わたしの肩に腕を乗せて、カメラを構える川島君にピースをする。
「いいよいいよ。さつきちゃんもピース!」
そう言いながら、川島君は自分もピースをして、シャッターを切った。
「藤村さんも入って下さい。みんなで記念写真撮りましょう」
川島君は、小さな三脚にカメラをセットしながら、撮影風景を隣で眺めていた藤村さんを促した。
「じゃあ、みんなでピースよ。いいわね」
みっこははしゃぎながら、みんなのポーズを決める。
『トロイメライ』の建物をバックに、わたしたち四人はフィルムに収まった。

 『トロイメライ』の部屋でひと心地ついたあとは、すぐに食事タイム。
マントルピースのあるダイニングルームで食べるフレンチ・ディナーは、とっても美味しくて、洒落ていた。藤村さんは『トロイメライ』のソムリエに、ワインを見立ててもらっている。
「こちらでいかがでしょうか? ブルゴーニュ産の85年ものになります。グランクリュの畑から採れた最高級のピノ・ノワールを使用しており、繊細で優雅でフルーティな特徴を持つブルゴーニュワインの神髄を、よくお楽しみ頂ける逸品でございます」
ソムリエはワインのラベルを藤村さんに見せながら、慣れた手さばきでコルクの栓を抜き、香りをかいだあと、グラスに赤い液体を少し注ぎ、藤村さんに差し出した。藤村さんはワインボトルのラベルを、確認するように眺め、グラスを揺らして、ワインを味わうように口に含む。
「畑名のワインなんだね。うん。いい香りだ。ボディは強いけど、ふくよかで飲みやすい。これを頂くよ」
藤村さんはそう言いながら、『かしこまりました』と言うソムリエに、『いいワインをありがとう』とお礼を言って、微笑んだ。
そうやって、ワインを選んでいるところなんかを見ていると、やっぱり藤村さんって、素敵なおじさまだな〜って思ってしまう。
グラスを傾けるときの、キャンドルライトに照らされた深い陰影のある面立ちが、とっても品があっておとなっぽくて、魅力的。どんなわがままでも余裕で受け止めてくれそうで、みっこが好きになるのもわかる気がするな〜。
「文哉さんって、ワイン好きなのに、あまり蘊蓄(うんちく)言わないわね」
ソムリエお薦めのワインで、みんなで乾杯したあと、みっこはなにかを思い出すようにクスリと笑って、藤村さんに言った。
「あたしね、以前クライアントの社長さんとお食事したとき、ワインの講釈を延々と聞かされて、辟易したことがあったのよ。
『ここは五つ星の最高級レストランだよ』って自慢してたけど、そんな気分じゃ、食事もちっとも美味しく感じなかったわ。お酒も勧められたけど、『あたし未成年ですから』って断っちゃった。どうして男の人って、すぐに蘊蓄を語りたがるのかしらね」
「ワインは蘊蓄語るものじゃなく、美味しくいただくものなんだよ」
藤村さんはみっこに微笑みながら、応えた。
「気のきいたレストランにはソムリエがいるから、そのガイドに頼れば、美味しいワインが飲めるのさ。ぼくも若い頃は通ぶって、ワインにも一家言持っていたけど、もう、そういう青臭い時期は過ぎたかなぁ」
「よかった。文哉さんが青臭いときに、いっしょにフレンチに行かなくて。人間も年月をおくと、熟成されてまろやかになるのね」
「歳をとったからって、だれもが『銘酒』になるとは限らないよ」
「ま。自分が極上のワインみたいな口ぶり。もう、自信家なんだから」
「ははは。さあ飲もう。開封して時間も経ったことだし、このワインも飲み頃になってきたよ」
「あたし、まだ未成年だもん」
みっこはそう言いながら、空になったワイングラスを差し出した。
「ははは。それってぼくに罪を犯せってことかい?」
「ふふ。まあ、今回はさつきの誕生日だし、大目に見てあげる」
「みっこちゃん。なんだか立場が逆だな。さつきちゃんはみっこちゃんと違って、もう堂々とお酒飲めるんだよね」
「はい。こんな美味しいワインも、やっとだれはばかることなく飲めるようになりました」
「あ。ぼくもお酒は大丈夫な年齢ですよ」
川島君もおどけた口調で言う。
「じゃあ、みっこちゃん以外は、どんどん飲んでよ」
そう言って藤村さんは、みんなのグラスにルビー色の液体を注ぐ。
「んもぅ。文哉さんのいじわる」
みっこはそう言って、可愛くすねてみせた。

 美味しいワインとディナーを楽しみながら、わたしたちは時間も忘れて、話し込んだ。
藤村さんやみっこ、川島君の仕事の様子や裏話を聞いたり、わたしたちの学校でのできごとなんかを話しているうちに、もうすっかり夜も更けてしまい、ワインボトルもカラになってしまったので、わたしたちは部屋に引き上げることにした。

『トロイメライ』での部屋割りは、男女別。
二階へ上がって、それぞれの部屋に入るとき、わたしはつい、隣の部屋の扉を開ける川島君を、目で追ってしまった。
こんな素敵なオーベルジュなんだから、やっぱり川島君とふたりっきりで、甘い夜を過ごしたかったな。
もう何週間も、わたしたち、ちゃんとしたふたりっきりのデートをしてないんだもの。

「ふふ。ほんとは川島君と、いっしょの部屋がいいんでしょ?」
ツインルームにわたしのあとから入ってきたみっこは、後ろ手でドアをパタンと閉めながら、からかうように言う。
「べっ… 別に、そんなことないけど…」
「うそ。部屋に入る川島君のこと、すがるような目で見てたわよ」
「う… うん」
「そうよね〜。やっぱりそうしたいわよね… いいわよ。じゃあ、川島君に言って、部屋を変わってもらうわよ」
「え? みっこはそれでいいの?」
「まぁね。いたいけな子羊ちゃんは、狼の巣で眠ることになるけどね」
そう言いながら、みっこはウィンクする。
「子羊って… みっこのこと?」
「あら? なんか『意外』って顔してる。まあ、あたしは子羊ってキャラじゃないかな」
「そ、そんなこと…」
わたしはそう弁解しながら、別のことを考えていた。
みっこはわたしをからかってるだけなの?
それとも、藤村さんといっしょになる、きっかけを作ろうとしているの?

「ねえみっこ。モルディブの帰りにみっこ、『好きな人ができちゃったみたい』って言ってたでしょ。あれはそのあと、どうなったの?」

わたし、とうとう聞いてしまった。
ずっと意識的に避けていた、その話題。
お酒が入って、饒舌になっちゃったかな?
「今まで、なんとなく聞きにくかったんだけど、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない? わたし、絶対に人に言ったりしないし、みっこの力になれるのなら、なんでもするから」
「ん…」
今まで機嫌よく、滑舌がよかったみっこは、わたしがその話を口にしたとたん、貝のようにおし黙ってしまい、フランス窓の桟(さん)に手をかけて、外の真っ暗な林に視線を移した。
ああ…
わたしはこういうみっこを、もう一年以上見てきた。
彼女がこうやって黙って外を見るときって、自分の中のなにかと、葛藤しているときなんだ。

「…なにも考えないで会うことなんか、できなかった」

長い長い沈黙のあと、みっこはようやく、重たい口を開いた。
「え?」
「彼と会うと、どうしても相手の女(ひと)のことが気になるの。それが、辛いの」
「相手のひとって…」
「だからもう、会いたくないの」
わたしの言葉を遮るように、みっこはかぶりを振りながら言う。
「あ、あきらめるつもり? その人のこと」
みっこはコクリと頷く。だけど、すぐに顔を上げて、わたしを見つめて首を横に振った。
「ダメみたい」
「ダメって…」
「会う度に、好きになっていく。この気持ち、止められない」
「みっこ…」
「ごめん」
「その人って、だれなの?」
「…」
「…」
「…」
「…藤村さん?」
少しの沈黙を挟んでわたしがそう訊くと、みっこは一瞬、ハッと瞳を見開いたが、否定も肯定もしなかった。
「そりゃ、藤村さんには奥さんがいるから、みっこが相手の女(ひと)のことが気になるってのも分かるし、わたしだって応援していいものかどうか、悩んでしまうけど…」
「…そうね」
「でも藤村さんって、奥さんとは別居してるんでしょ? それって、ふたりが上手くいってないからじゃないの?」
「…だと思う」
「だったらまだ可能性はあるじゃない。離婚するのを待つとか。いつかみっこがわたしにアドバイスしてくれたように、それまでは完璧に、『友だち』として接していればいいんじゃない?」
「さつき」
「ん?」
「せっかく白馬まで来て,あたし落ち込みたくないの。だからこの話は、もう、やめましょ?」
「みっこ…」
「お願い」
彼女は懇願するかのような、せつない瞳でわたしをじっと見つめていたが、ふっと視線を下にそらし、寂しげにうつむいたまま、黙ってしまった。
みっこのこんな真剣で、哀しげな表情って、はじめて見る。
そんな彼女を見ていると、わたしはこれ以上、なにも訊けなくなる。
みっこは藤村さんに対しては、端からは完璧に友だちを演じているように見えるけど、心の底に、こうまで深くせつない想いを秘めているの?
それとも、もしかして…
わたしはなにか、根本的な思い違いをしているの?
彼女がせつなく想いを語る相手は、藤村さん以外の人なの?

みっこが黙して語らない以上、真実は依然として、この白馬の深い闇の森の向こう…

 次の日は川島君がハンドルを握り、上高地に移動して、上高地帝国ホテルにチェックインしたあと、一日をずっとその付近で過ごした。
白馬での夜、みっこにあんなことを訊いたせいか、なんとなく、それからのわたしたちの会話はギクシャクしてしまい、わたしたちはあまりしゃべらず、結局川島君と部屋を交替することもなく、ちょっと気まずいまま、ふたりともベッドに入ってしまった。
今日もそんな気分を少し引きずっているのか、ドライブをしているときも、みっこはいつもどおりほがらかではあるんだけど、なんとなく言葉少なで、時折なにかの思いに耽っている様子。
藤村さんも川島君も、そんなみっこの違いに気づく様子はなかったけど、わたしはちょっと違和感を覚えてしまった。
それはほんとに、僅かな… かすかなフィーリングの違い。
例えば和音の一音だけが、ほんの少し音をはずしているような、微妙な音色の濁り。
だけどそれは、みっことの長いつきあいのなかで奏でてきた、『親友』という名のハーモニーが、狂いはじめる予兆だったのかもしれない。

 日本アルプスの登山口の上高地は、一般のクルマは入ることができず、正面には、夏でも残雪をその頂きにかぶった峰々が、青い屏風のようにそびえ立ち、その麓には真っ青に澄んだ水をたたえた大正池が、山々の影を映している。

『避暑地のバカンスは、スケジュールを詰め込むのは野暮』
ってみっこの言葉、なんだかわかる気がするな。

 気ぜわしい東京や福岡の街と違って、時間がゆったり流れているような、こんな素敵な景色のなかでは、頭の中を全部空っぽにして、一日中なにもしないで、面倒なことはなにも考えず、ただぼんやり、湖のほとりに座っていたい。
わたしは今だけは、みっこの恋愛のことも、川島君とみっこのことも、ぜんぶ忘れて、この二十歳(はたち)の記念のバカンスを楽しんでおきたかった。

 

 東京に戻ってきたのは、その翌日の夜だった。
藤村さんお勧めの新宿のレストランで夕食をとったあと、わたしたちはそれぞれ帰途についた。

「さつきは今夜は、川島君のところに泊まったら?」
藤村さんと駅のコンコースで別れたあと、切符を買いながらみっこは、出し抜けにわたしたちに言った。
「えっ? みっこ?」「みっこ?」
わたしと川島君の返事が、思わずハモる。
みっこのこういう気まぐれには慣れているつもりだけど、あまりに唐突すぎて、わたしと川島君は顔を見合わせた。
「さつきは明日の午後の新幹線で帰るんでしょ? いっしょにいられるのは今夜で最後じゃない。さつきん家(ち)が厳しいって言うから、今まであたしの家に泊まってたし、旅行はみんなといっしょだったから、川島君とふたりっきりにもなれなかったし。でも、さつきだって帰るまでくらい、川島君といっしょにいたいでしょ?」
「そ… そりゃ、まあ、そうだけど…」
わたしはちょっと口ごもる。あまりに図星だったので、逆に戸惑ってしまう。
みっこはわたしたちにニッコリと微笑んだ。
「心配ないわよさつき。もし家から電話があっても、適当にごまかしといてあげるから」
「う… ん。ありがと」
「うちに置いてある荷物は、お部屋に置いている家へのお土産と、クロゼットにかかってる服と着替えだけでしょ?」
「うん…」
「じゃあ明日、東京駅に見送りに来るときに、全部持ってきてあげる」
「ほんとにいいの?」
「もちろんよ。邪魔者はもう、消えるわね」
そう言いながらわたしに軽くウィンクをし、みっこは川島君を見る。
「川島君も… ずっとさつきを独り占めしてて、ゴメンね」
「いや… そんなことはないけど…」
「今夜はふたりでゆっくりしてね」
「みっこ…」
「じゃ、あたしはここで。あたしはJRだけど、川島君家(ち)は小田急でしょ。おやすみ」
「ああ… おやすみ」
「おやすみ…」
わたしもだけど、川島君の言葉も、なぜか歯切れが悪い。
ふたりともこの突然のなりゆきに、それぞれなにか、引っかかるものを持っているからかな?

みっこはわたしたちに軽く手を振ると、素早く踵(きびす)を返して、改札口に向かう。

「みっこ!」

川島君は思わず、彼女を呼び止めた。
改札を抜けようとしていたみっこの足が、川島君の声でピタリと止まり、一瞬の間があって彼女は振り返り、川島君をじっと見つめた。
「…さよなら。川島君」
「あ… ああ。さよなら」
「…」
みっこはなにか言いたげに川島君を見つめていたが、ふっと視線をはずし、そのまま早足で改札を抜けて、プラットホームへの階段を駆け上がっていった。わたしと川島君はしばらく、そのうしろ姿を呆然と見送っていた。

「行こうか? さつきちゃん」
「え? ええ」
先にわれに帰った川島君は、そう言ってわたしを促すと、財布のなかから私鉄の回数券を取り出し、わたしに一枚渡してくれた。わたしたちはみっこが消えていった改札と反対の、私鉄の改札を通って、出発待ちの電車が並んでいるプラットホームに出た。

「まったく… みっこって、いつだってひとりで、なんでも決めちゃうんだから」
夜になっても乗客の多い準急のドアに立って、わたしは川島君に話しかけた。
「みっこがわたしたちに気を遣ってくれるのは嬉しいけど、『邪魔者』だなんて。なんだか気を回しすぎてるみたいで、みっこに無理させてるみたい。そう思わない? 川島君」
「え? ああ。そうだな」
ぼんやり外の景色を眺めていた川島君は、気のない様子で生返事をした。なにか他のことを考えているみたい。
「なに考えてるの?」
「…別に」
「なんか変」
「そうかな? いつもと同じだけど」

ううん。同じじゃない。
いつもの川島君なら、わたしの話を虚ろに聞いているなんてことは、ない。
川島君はいったい、なにを考えてるのかしら?
さっき、みっこが改札を抜けようとしたとき、川島君はなにか言いたげに、思わず彼女を呼び止めた。いったいみっこに、なんの話があるというの?
あ…
そう言えば…

『あたしはJRだけど、川島君家(ち)は小田急でしょ』

みっこは川島君が、小田急線沿いに住んでいることを知っていた。今度の旅行では、みっこと川島君の間で、そんな話はしなかったはず。
それに…
どうしてわたしは今まで、このことに気がつかなかったんだろう。

「川島君。『みっこ』って、呼び捨てにするのね」
「え? そうだっけ? さつきちゃんがそう呼ぶのをずっと聞かされてたから、移ったんだろ」
川島君はそんなことは気にもとめず、外のビル街の夜景を見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。

ううん。そんなことない。

今思い返せば、川島君は今度の旅行で、みっこと会ったときから、森田美湖のことを『みっこ』って呼んでいた。東京に行く前までは、確かに『みっこちゃん』って呼んでいたのに…
「川島君。みっこと… なにかあったの?」
「なにかって?」
「だから… なにかよ」
「別に… なにもないよ」
「ほんとに?」
「…ああ」
「でも、仕事のときとかに、会ったんでしょ? みっこと」
「まあ、会ったけど」
「そのときとか、なにもなかった? 正直に言ってよ」
「さつきちゃんは、ぼくを疑ってるのか?」
「…そ、そんなこと」
川島君のちょっと苛ついたような口調に、わたしはびっくりして肩がすくんで、思わず黙ってしまう。
今まで川島君がわたしに、こんな風に苛立ちを見せたことなんて、なかった。
いったい川島君、どうしちゃったの?
東京に行ってる間に変わった、川島君の森田美湖への呼び方の裏にある、妄想じゃない事実を、知ってしまうのが怖くて、わたしはそれ以上、みっこのことは追求できなかった。

 新宿から30分ほどのところにある、『百合ケ丘』という小さな駅で、わたしたちは電車を降りた。
「都心からは少し離れてるのね。神奈川県になってたわ」
なにか話題を探さなきゃと思い、電柱の標識を見ながら、わたしは川島君に言った。
「都内は家賃が高くてね」
「そう…」
「…」
「東京も、暑いね」
「そうだな」
「…」
「…」
川島君は、自分からはなにもしゃべらない。
わたしももう、なにをしゃべっていいか、わからない。
わたしたちは夜の歩道を、言葉少なに歩いた。

こんなことって、今までほとんどなかった。
出会った頃やつきあいはじめは、気恥ずかしさが先にたって、ふたりとも思わず無口になることもあったけど、いろんなことをひととおり経験して、なんでもざっくばらんに話せるようになった今、こういう沈黙は、空気が澱んだ感じで、不安になってしまう。
川島君と離れていた1ヶ月ちょっと。
その間に、わたしたちには、予想外のブランクができてしまったのかもしれない。
川島君はさっき、みっこのことを色っぽい目で見ていたし、みっこも川島君との別れが惜しい様子だった。
わたしのことなんて、上の空。
そう言えば、旅行の間も、川島君はみっこの写真を遠慮なく撮っていたし、みっこも川島君に対して、夏休み前より気安くなっている気がする。
今夜だって、ほんとの『邪魔者』は、実はわたしの方で、もしかして、川島祐二と森田美湖は、すっかりいい仲になっていて、川島君はわたしのことなんて、もう、どうでもよくなってるんじゃないの?

東京なんかに、来るんじゃなかった。
わざわざ、そんな辛い事実を確かめるために来るなんて、バカみたい。
そんなことを妄想しながら、わたしは川島君のあとを、トボトボとついていった。

 駅から10分ほど歩いたところに、川島君が住んでいる小さなアパートがあった。
学生コーポって感じの、どこにでもあるような、外に階段のついた二階建ての白い建物。
川島君はわたしより先に階段を登ると、玄関のドアを開けながら言う。
「さつきちゃん、ちょっとここで待ってて」
「え?」
「今、部屋の中、すっごい散らかってるんだよ。最近は仕事が忙しくて片づける暇もなくて。まさか今夜、さつきちゃんが来るなんて思わなかったから、大急ぎで片づけるよ」
「わたしも手伝うわよ」
「いいよいいよ。仕事の写真とか、機材とか、人に触られたくないものもあるし、すぐに終わるから」
そう言いながら川島君は部屋に入り、わたしの鼻先でバタンとドアを閉じた。部屋の中からはドタンバタンと、慌てて片づけをしているような音が響いてくる。
そりゃ、男の人のひとり暮らしって、雑然としてるものかもしれないけど、わたしにも部屋を見せられないなんて…
いったい川島君は、なにを隠そうとしているの?
まさか、女ものの下着とか、歯ブラシとか化粧品とか…
わたしは悪い方にばかり、考えがいってしまう。

「お待たせ。どうぞ」
しばらく外で待たされたあと、川島君は息を弾ませながら、ドアを開けた。額や背中には、うっすらと汗が滲んでいる。
わたしは部屋に入ると無意識に、あたりをチェックするように見渡した。
ほとんど家具のない1DKのこじんまりとした部屋は、いかにも『目障りなものは全部、押し入れに突っ込みました』って感じで、不自然に綺麗で、生活感がない。
「ふうん。川島君、こんなところに住んでるのね」
簡単なベッドと机のある部屋に通されたわたしは、ひとりごとのようにそう言って、川島君が出した座布団に座るなり、口をとがらせた。
「川島君、わたしに見せられないものでもあるの?」
「そういうわけじゃないけど…」
「じゃあ、部屋を片づける前に、わたしを入れてくれてもいいじゃない。なんだかショックだった」
「…いや。やっぱり見せられないな」
「え?」
「ダメなんだよ」
その言葉に、ドキリとする。
『ダメ』って…
川島君はなにを言いたいんだろう?
まさか、『わたしとはもうダメ』なんて言うんじゃ…

「ぼくのズボラさは、さつきちゃんには絶対見せちゃダメなんだ。そんなのを見られたら、さつきちゃんに愛想尽かされそうだから」
川島君はそう言って、麦茶の入ったコップをふたつ持ってきて、わたしに差し出し、微笑む。
川島君。
この微笑みは、昔のまんま。

「ゴメンな」
「な、なにが?」
川島君は真剣な眼差しでわたしを見つめ、やさしく言う。
「いろいろ。ぼくのわがままで、さつきちゃんにイヤな思いさせてしまって」
「………淋しかった」

川島君のそんなやさしい言葉を聞くと、堰が切れたように思わず涙が溢れてきちゃって、わたしはポツリとひとこと言うと、唇を噛んでうつむいた。
ここ数日のもやもやした想いが、とめどなくわき上がってきて、胸が詰まりそう。
うつむいた拍子に、涙の雫がポトポトとこぼれて、カーペットの床に染みを作る。
「さつきちゃん?」
「ごめんね川島君。わたし、不安で不安で…」
「………」
川島君はわたしを見つめ、ため息のような、声にならない言葉を発すると、わたしのからだをきつく抱きしめた。
「あ…」
わたしは驚いて小さく声を上げたけど、拒まなかった。
川島君はわたしの頬を両方の手のひらで包み、親指で涙を拭うと、そっと唇を近づける。わたしは反射的に瞳を閉じた。
一ヶ月ぶりに触れる、川島君のぬくもり。
川島君の素肌。
なんだか嬉しくて、懐かしい。
気持ちが昂ってくる。

「川島… くん」
思わず彼の名を呼んでみる。
わたし、やっぱりこの人が、好き。
どんなにブランクが空いたって、この一瞬でみんな埋められる。
みんな取り戻せる!

そんな気がして、わたしは彼の背中に腕を回し、ぎゅっと力を込めた。
「さつきちゃん」
「もっと、キスして」
そう言い終わらないうちに、わたしの方から唇を重ねる。
川島君も、今まで溜まっていた想いを、全部わたしにぶつけるように、息もできないくらい強くわたしを抱きしめ、そのままベッドに倒れ込む。
その夜は、久し振りに感じた川島君の肌のぬくもりが、とっても愛おしくて、遅くまで愛しあった。

 

 東京での最後の朝。
川島君はまだベッドのなかで、はだかでまどろんでいる。
今日はいつものように、新宿の星川先生のスタジオで仕事らしい。
わたしも隣ではだかで眠っていたけど、朝の支度をしてあげようと思い、先に起きてショーツをはいてエプロンだけを羽織り、冷蔵庫のなかを覗く。どこかのコンビニかスーパーで買った材料があったので、それを使って、手早く朝食を作った。

「さつきちゃん、もう起きてたのか?」
「あ。川島君、おはよう。今起こそうと思ってたのよ。もうすぐごはんができるから。冷蔵庫のなかのもの、勝手に使っちゃった」
「え? いいよ。嬉しいな」
そう言って川島君はベッドから起き出し、レンジの前でフライパンを持っているわたしを、うしろから抱きしめた。
「はだかエプロンって、さつきちゃん、すごくエロい」
「もう。川島君のエッチ」
「はは」
そう言いながら、彼はエプロンの上から、わたしの胸を弄(もてあそ)ぶ。
「あん… 料理ができないじゃない」
「そんなのはいいよ」
「遅れるわよ」
「大丈夫」
川島君はできあがったスクランブルエッグの入ったフライパンの火を止めると、背中越しにキスをして、そのままうなじに唇を這わせる。

もうっ。朝から元気なんだから。
でも、こういうのって、なんだかいいな。
好きな人と迎える朝って、幸せ。
昨夜は充分に愛されていたのもあって、わたしの心もからだも、上機嫌だった。

 そのまま朝エッチをしてしまい、やっぱり時間がなくなって、ごはんを大急ぎで食べて、川島君はあたふたと出勤の準備をする。わたしもいっしょに出られるよう、急いで支度を整えた。

「もう、川島君。 全然大丈夫じゃないじゃない」
「ごめんな、最後の朝だってのに、バタバタで」
「ううん、いいの。気持ちよかったし」
「さつきちゃんは午後の新幹線で帰るんだろ? 見送りに行けなくてごめんな」
「大丈夫。みっこが来てくれるし。川島君もお仕事頑張ってね」
「ああ」
「今度東京に来たときには、ディズニーランドとか行きたいな。今回は行けなかったから」
「あ… ちょっと待ってて」
川島君はそう言って、思い出したように机の引き出しから、リボンのかかった小さな箱を取り出し,わたしに差し出した。
「誕生日おめでとう。遅くなっちゃったけど、これ、プレゼント」
「え? ありがとう!」
「さ。もう行かなきゃ」
「あん。ちょっとだけ見ていい?」
「ん… いいけど、あまり時間がないよ」
「ちょっとだけ」
そう言いながら、わたしはプレゼントの包装を解いた。
なかから出てきたのは…
ミッキーマウスの万年筆。

「…」
「可愛かったから、思わず買ってしまったんだ」
「…」
「やっぱり小説家には、万年筆が似合うよな。どうかな?」
「…川島君。これ… もしかして、ディズニーランドで買ったとか?」
「あ… ああ」
「ひとりで行ったわけじゃ、ないんでしょ?」
「え? あっ。こっちの友だちと行ったんだよ」
「…」
「ご、ごめん。さつきちゃんがディズニーランドに行きたいってわかっていれば、信州じゃなく、そっちにしたし、友だちとも行かなかったんだけど… ほんとにごめん!」
川島君はわたしの顔色が変わったのを見て、素早くフォローに出たけど、そんな彼の言い訳は、全然耳に入ってこなかった。

わたしが思ったことは、たったひとつ。

『みっこが行ったディズニーランドに、川島君も行っている』

その事実だけだった。

「さつきちゃん。怒ったのか?」
「…」
「ごめんな。今度東京に来たときは、絶対行こうな」
「…」
「さつきちゃん?」
「もういい!」

わたし、こんな会話は、さっさと打ち切りたい。
考えたくもない。
だけど、この小さな事件は、わたしの心のなかに、大きなシコリになって、残りそう。

わたしはディズニーランドへは川島君と行きたいと思っていたから、彼が他の人と行ったのは、すごくイヤ。
例え、その『友だち』とやらが、男の人だったとしても、だ。
それにディズニーランドって、ふつう、男の人同士で行くような所じゃないから、その『友だち』ってのは、女の人なんじゃないの?
そして、もし、わたしの直感どおり、その『友だち』が、森田美湖だったとしたら…

 長かったサマー・バケイションの最後の最後。
東京駅のプラットホームでみっこが見送るなか、わたしはとっても大きな、ほんとうに厄介な、終わらない宿題を、心のなかにしまい込んで、東京の街をあとにした。

END

2nd Nov. 2011

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