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Canary Ensis



 空から見下ろすインド洋は、どこまでも果てしなく広がる、コバルト色の絨毯。
遥か遠くの水平線がゆるいカーブを描き、「地球」って惑星を想像させる。
その中に、まるで大小さまざまの真っ白い真珠の粒をばらまいたような、リーフに囲まれたたくさんの小さな島々が散らばっている。
「あと30分くらいで、モルディブよ」
隣の席に座っている森田美湖が言った。
言葉で聞かされると、なんだか感動がこみ上げてくる。
わたしの隣の川島君も、興奮を隠せないかのように、瞳をキラキラ輝かせている。

モルディブか…

まさか、日本から出たこともなかったこのわたしが、こんなインド洋の赤道近くまで来ることになるなんて、つい一ヶ月ほど前までは、想像もしてなかったな。



 そう… あれは先月のはじめ。
ちょうど後期の試験がはじまる頃で、これから迎える試験の日々にもかかわらず、早々と春休みのバカンスを、みっこと計画していたときのこと。
アルディア化粧品のサマーキャンペーンの打ち合わせで、東京に戻っていたみっこから、電話があった。

「3月上旬に1週間くらいのロケ撮影が決まったんだけど、さつきもいっしょに行かない? ついでに春休みのバカンスにもなるような場所よ」
「え? わたしが行ってもいいの? だったら絶対行きたい! どこで撮影するの?」
「ふふ。電話じゃ言いにくいわ。会って話した方が手っ取り早いから、明日さつきの家に行ってもいい?」
「いいわよ。でも、言いにくいって… 企業秘密とか? この電話は盗聴されてないわよ。多分」
「あはは。じゃあ、明日ね」

そう言って電話を切ったみっこは、次の日の午後、わたしの家にいろんな書類や資料を抱えて、やってきた。
彼女は分厚い封筒を差し出すと、嬉々とした顔で言う。
「はい。モルディブでのスケジュール表と、向こうでのガイドブックに、いろんな資料よ」
わたしは一瞬、自分の耳を疑った。
「え… モルディブ?」
「そう。モルディブ」
「それ、どこ? 日本じゃない… よね?」
「インド洋の真ん中よ。赤道直下の南の島」
「インド洋ぉ〜?!」
「ふふ。ナオミが予想していたパリとは違うけどね。ちょっとびっくりした?」
「ちょっとなんてもんじゃないわよ! みっこったらとんでもないこと言うんだもん。インド洋なんて遠くて… 簡単に行けるわけないじゃない! わたしなんにも準備してないし」
「まだ一ヶ月も先の話よ。準備なんてゆっくりできるじゃない」
「そうじゃなくて、お金の準備が… だいぶかかるんでしょ? やっぱり行けそうにないわ」
わたしがそう言って肩を落とすと、みっこは『ふふ』と笑って言った。
「さつき、アルバイトしない?」
「アルバイト?」
「割のいいのがあるの」
「え? そんなに収入いいの? でもわたし、『お水』なんてしないわよ」
「そんなんじゃないわ。モルディブでの撮影スタッフのバイト」
「ええっ?!」
あっけにとられたわたしを見て、彼女は微笑んだ。
「どうかしら? 時給はすっごい安いけど、役得として、モルディブまでの交通費や向こうでの滞在費用は、ぜんぶ会社持ちなのよ。悪いバイトじゃないと思うけど」
「ほ… ほんとにわたしなんかでいいの? わたし、なんにも役に立てない自信があるわよ」
「あは、大丈夫。うちのマネージャーさんが途中からしか来れないから、さつきにはその代理を頼みたいの。ぶっちゃけ、横で見てればいいだけよ」
「ほんとに?」
「ええ。あと、実はもうひとり募集してるの。力仕事ができて、撮影のアシスタントができそうな男の人」
「男の人?」
「そちらの人選はさつきに任せるわ」
「みっこ… それって、川島君のこと?」
彼女は返事の代わりに、ニッコリ微笑んだ。
「そのかわり、ふたりでビシバシ働いてもらうわよ。いい?」
「みっこ… ありがと!」

みっこはわたしに本当によくしてくれる。彼女の厚意がとっても嬉しかった。
はじめての海外旅行。おまけに、みっこがモデルの仕事をしているところまで、間近で見れるなんて。なんてラッキー!


 モルディブの空の玄関口、マーレ空港に降り立ったわたしたちを、最初に迎えてくれたのは、熱帯独特の高気圧の爽やかな風。そして、ほとんど垂直から降りそそぐ、遮るほこりひとつないような、強烈な陽の光。
ほとんど赤道の真上にあるこの島国は、年間の半分は雨期だけど、今はベストシーズンらしく、すべての景色がくっきりと、原色で描かれているって感じ。珊瑚のコンクリートでできた建物は、鮮やかな白のコントラストを描いて、目にまぶしくしみてくる。

「素敵! わたしこんな景色見たの、はじめて! 日本の海とか空とかの色と、ぜんっぜん違う!」
「本や絵はがきで見るモルディブの景色って、嘘だったな」
川島君が、額に手をかざしながら言う。
「え? どうして?」
「この景色の色って、印刷で出せる色の範囲を超えてるよ!」
「そうよね! 葉っぱとかまで、キラキラ輝いてて、単なる『緑』なんて言葉じゃ表せないわね!」
「葉っぱだけじゃないよ。日本から1万キロだもんな。これはもうカルチャーショックだよ!」
そんな感嘆符つきの言葉をわたしと川島君は発しながら、回りの景色をキョロキョロと見回した。
ほんとにこのモルディブってところは、今までのわたしたちの世界とはまったくかけ離れていて、もう見慣れたはずの川島君やみっこの顔さえも、ここの光で見ると、ハッとするような新鮮さに溢れているような気がする。
「確かにね。これだけ綺麗な海や景色をバックにした絵は、日本じゃ絶対撮れないものなのよ」
「そうだろうな。ほんと、森田さんには感謝してるよ。こんなすごい所に連れてきてくれただけでなく、撮影の現場にまで入れてくれて。ありがとう!」
うわ。川島君、すごい張り切ってる。
そうよね。川島君はカメラマンになるのが目標だから、彼にとってはプロの撮影の現場を体験できる、またとないチャンスなわけよね。
「ふふ。頑張ってね川島君。さ、行きましょ」
そんな『海外旅行はじめて組』の、興奮しまくっている川島君とわたしを引率しながら、みっこは税関のゲートをくぐって、空港のロビーへ出た。

「よっ。みっこちゃん。無事に着いたね」
「あっ。文哉さん! こんにちは!」
ロビーでわたしたちを出迎えてくれたのは、40歳がらみのなかなかいかした感じの男の人。
背が高くてスタイルもよく、頭がよさそうな、女の子好みの甘い感じの顔立ちで、『若い頃はたくさん女の子を泣かせてきました』ってオーラが出ている。(あ。今でもかな?)
そんな彼のうしろには、長い髪をオールバックにして個性的な眼鏡をかけ、スコッチひげを生やした、いかにも『アーティスト』という風体のおじさんと、Tシャツにジーンズ姿のスタッフらしい男女が2人程いて、みっこを見てそれぞれ挨拶をした。
みっこはしばらく『文哉さん』と呼んだ男の人と話をしていたが、わたしたちを振り返るとにこやかに、彼のことを紹介してくれた。
「この人が今回のCMディレクターの藤村文哉さん。今までに何回もいっしょに仕事している凄腕ディレクターさん。超一流よ。超一流!」
「おいおい、みっこちゃん。二回いうのはお世辞じゃなくて、ヒニクなんだよ」
藤村さんはみっこの『ヒニク』も笑って受け止め、微笑んでいる。みっこがそんな『ヒニク』を言えるってことは、このふたりは、かなり親しい仲なのね。
「弥生さんに川島君だね。みっこちゃんからいろいろ聞いてますよ」
藤村さんはわたしたちの前へ歩み寄ると、微笑みながら手を差し出した。わたしたちは恐縮しながら、交互にその手を握り返す。こうやっておとなの人と握手するなんて、『ビジネスの世界』って感じで、緊張してしまう。
「あははは… ふたりとも、そんなに固くならなくていいよ。ぼくは小さい頃からのみっこちゃんを知っているけど、彼女は学校でもモデルクラブでも、あまり友だちがいなかったんだ。だから、彼女の友だちなら大歓迎だよ。まあ、今回のロケは遊びにきたつもりで、楽しんでいってよ」
「もうっ。ダメじゃない文哉さん。甘やかしちゃ。ふたりともバイトに来てるんだから、思いっきりこき使ってやってよ」
藤村さんの、まるでお父さんが娘を思いやるような言い方に、みっこは照れくささを誤摩化すかのように言う。
「なに言ってんだい。みっこちゃんの友だちだから、甘いんじゃないか」
「文哉さんったら… 『ちゃん』づけはもうやめて」
みっこの頭をくしゃくしゃと撫でる藤村さんを、彼女は上目づかいにはにかむように見上げる。
このふたりは本当に仲がいいんだ。
さっきは『お父さんと娘』みたいな印象を受けたけど、まるで『お兄さんと、うんと年の離れた妹』のようにも感じるなぁ。
「まだまだ未熟ですけど、精いっぱい頑張りますので、よろしくお願いします」
川島君は張り切って答える。
わたしも釣られて、『よろしくお願いします。なんでもしますので』と、ペコペコと頭を下げた。
「ははは。その様子じゃ、ずいぶんみっこちゃんに脅されたみたいだね。
まあ、確かに一応『スタッフ』なんだし、ちゃんと働いてもらうよ。弥生さん… 「さつきちゃん」でいいかな?」
「え? あ、はい」
「さつきちゃんには、みっこちゃんのマネージャーが来るまで、彼女のスケジュール管理と、世話や雑用をやってもらうつもりだし、川島君は主に、撮影機材の設置や撤収の手伝いを頼むよ」
「はい」「はい」
わたしと川島君の返事がダブる。藤村さんは仕事の話になると、急にハキハキとした業務口調に変わった。口調はソフトなままなんだけど、冷静で客観的な物言いに、人を引っ張っていく力を感じる。
「ふたりとも、撮影スケジュール表には、もう目を通しているかな?」
「はい! 把握しています」
「はい」
はきはきと川島君が答え、わたしも続いた。
「うん。その表にあるように、CF撮りは明後日からで、明日は先にスチルを撮るから」
「はい」
「川島君は写真の専門学校生という話だけど、技術的なことはともかく、君自身の機転で、積極的に行動してくれればいいから」
「はい。ありがとうございます!」
「よし。他のスタッフを紹介しよう」
そう言って、藤村さんはスタッフひとりひとりを、わたしたちに紹介してくれた。

オールバックのひげのおじさんは、ディレクター・カメラマンの星川英司先生。この先生はしゃべり方がいかにも『業界人』って感じで、ちょっと女言葉がかっていておもしろい。
黒いTシャツで、地元の人みたいに真っ黒に日焼けした若い男の人は、チーフアシスタントの首藤さんで、そのうしろにはアシスタントの若い男性がふたり。
ソバージュのヘアをトップでくくった、ちっちゃくて綺麗な女の人は、メイクアップアーティストの仲澤さん。背が高くてスレンダーな長いワンレングスヘアの人は、ヘアメイキャッパーのYOKOさん。それぞれわたしたちを、好意的に迎えてくれた。

「星川よ。川島君はカメラマン志望なんですってね」
「よろしく、首藤です。こいつらはアシスタントの本多と大竹」
「はじめまして。メイクの仲澤美穂です。よろしくお願いします」
「ヘアメイキャッパーのYUKOです。みっことは何回もお仕事してるのよね」
えっ? YUKOさんって、男性?
声を聞いてはじめてわかった。
そういう人はテレビやマンガではよく見るけど、実際にこの目で見ると、なんかすごい世界だわ。
「よ、よろしく。み… 森田さんのマネージャー代理で、弥生さつきです」
「川島祐二です。頑張ります! よろしくお願いします。」
「そしてあたしが、モデルの森田美湖。よろしくね」
みっこは最後にそう言って、おちゃめに舌を出す。こういう愛嬌のあるところが、みっこの可愛らしさよね。
自己紹介が終わって、藤村さんが締めるように言う。
「じゃあ、これからホテルに移動だ。
本隊のCF(コマーシャルフィルム)部隊は明日の夜着く予定だし、代理店のプロデューサーやクライアントのお偉いさんたちも、明日の撮影前にしか来ないから、今日は少しはゆっくりできると思うよ。ここにいるのはスチルの撮影部隊で、みんな気心の知れた連中ばかりだから、楽しくやっていきましょう!」
そうは言ってくれても、みんな、わたしや川島君に較べると、それぞれ一流のプロフェッショナルなクリエイターばかりだもの。『緊張するな』って言う方が、無理というものだわ。

 

『ひとつの島を一周するのに1時間とかからない、小さな島々が1200以上も集まってできたモルディブ諸島は、『インド洋の首飾り』と呼ばれ、それぞれの島が『首都の島』『空港の島』『リゾートの島』という風に、役目を分担している』

これはみっこからもらった、ガイドブックの受け売り。
わたしたち一行は、『空港島』から水上飛行機で南に30分ほど行った、アルディア化粧品のプライベートホテルのある、リーフに囲まれた小さな島に滞在し、ここで撮影もすることになっていた。
フロートのついた飛行機に乗って、真っ青なインクをこぼしたような、綺麗な青のグラデーションを滲ませる珊瑚礁の島々を見ながら飛ぶうちに,やがて夏のカレンダーに出てくるみたいな、水際まで白い砂と椰子の樹が生い茂った、可愛らしい島が見えてきた。飛行機はアクアマリンの内海を純白の波で切り裂きながら着水し、簡素な桟橋に横付けになる。
 この島も西蘭女子大の敷地くらいの大きさしかなくて、桟橋の先には真っ白でしゃれた、2階建てのリゾートホテルがひとつ。その横にはプールとテニスコートといった施設が並んでいて、向こうの岬には水上コテージが何棟かあるだけ。
それ以外は、ただ、真っ白な足跡ひとつない砂浜と、南国特有のギザギザな葉っぱを繁らせた、小さな森。そして、インド洋の荒波が砕けている、沖のリーフだけだった。
そんな眺めはシンプルで、鮮やかで強烈。
まさに、化粧品のCMに出てくるような景色だった。

「さつき。泳ぎに行こ!」
ホテルのロビーに入ったみっこは、自分のバッグをポンと近くのソファに置くと、チェックインもすまさないうちに、水着とタオルだけを取り出して、『早く早く!』と、わたしをせかす。
「みっこ、不用心じゃない。荷物くらい部屋に持っていってからじゃないと」
「大丈夫よ。このホテルはアルディア化粧品の保養所だから、あたしたちの他にはだれもいないし、モルディブのリゾートって、だいたいひとつの島にひとつのホテルだから、わりと安全なのよ」
「へえ〜。そうなんだ」
「さすがバブル。日本企業はこんな南の島にまで、リゾートホテル建ててるんだな」
川島くんも荷物の中から、さっそくカメラを取り出しながら、感心するように言う。
「そういうこと。遊べるのは今日だけだもの。部屋にこもってるなんて、もったいないわよ。川島くんも、カメラなんて放っといて、いっしょに泳ぎましょ」
「え? ぼくも泳ぐの?」
「あたりまえじゃない。文哉さんも、星川センセも、みんなで遊びましょうよ!」
そう言いながら、みっこは子どものようにはしゃぐ。
こんな風に、彼女が可愛くわがままを言ってじゃれているのって、今まで見たことがなかったな。これがほんとの森田美湖みたいで、去年までのギャップを考えると、なんだかホッとした気持ちになってくる。
「まったく。遊びにきたんじゃないのよ、みっこちゃん」
星川先生は『まいったわ』と言ったゼスチュアをして、みっこをたしなめていたけど、眼鏡の奥の瞳は笑っている。この先生も藤村さんのように、みっこのわがままが可愛く感じるのね。
「まあまあ、明日からは遊ぶ暇もないくらい、ハードスケジュールになるからね。先に行っといでよ、みっこちゃん。ぼくたちもチェックインをすませて、あとから行くから」
藤村さんはそう言いながら、みっこのバッグをフロントに置いて笑う。
「じゃあお願いするわ。早く来てね。ビーチで待ってる」
みっこはそう言い残すと、わたしと川島君の腕をとり、ホテルの中庭を横切って、ビーチに出た。

「うわっ!」
砂浜に立つと、太陽の光は、珊瑚のかけらでできた真っ白な砂粒からも反射してきて、よけいにまぶしい。
ガイドブックと同じ景色が、フレームに入りきらない大きさで、わたしたちの目の前に広がっている。
わたし、本当にモルディブの海にいるんだ!

「このシャワー室で着替えるのよ」
青空の見える、つい立てで区切っただけの簡単なシャワー室に入ると、みっこはためらいもなく服を脱ぎ捨てた。
「うわ。みっこダイターン!」
わたしはタオルをからだに巻きながら、みっこの水着を見て、思わず声を上げた。
去年の夏にいっしょに海に行ったときは、ワンピースの水着だったけど、今日は白のビキニ。
きわどいハイレッグが脚の長さを強調していて、すごくスタイルがよく見える。
「なんか、すごい露出度ね」
「ふふ。ここにはつまらないナンパもサーファーもいないから、どんなカッコもできちゃうわ。この辺のリゾートじゃ、トップレスだってふつうだし」
「ええっ! それはちょっとまずいんじゃない?」
「どうして?」
「だって…」
わたしはふと、川島君のことを考えた。
う〜ん。みっこの胸を川島君が見るのなんて… やっぱりイヤだな。
そんなわたしの思いをみっこは察したように、『ふ〜ん』と笑う。
「さつきもいっしょにトップレスにする? 気持ちいいわよ」
「ええ〜っ。やだ!」
「なんなのよさつきったら。そんなタオルにくるまってモチャモチャ着替えるなんて、カッコ悪〜い。パァーッと脱ぎなさいよ」
笑いながらそう言って、みっこはわたしのタオルを引っ張る。
「わ、わかったわよみっこ。そんな、はがさないで」
しかたなくわたしも、タオルをとって着替えをする。
あまり好きじゃないんだ。自分のはだかを人に見られるのって。特にみっこには…
なんだかんだ言っても、わたしはやっぱり彼女に、容姿コンプレックスを持ってるもの。
「あ〜。さつき、ずるい!」
「え? な、なにが?」
「胸、大っきい。どうしたらそんなに育つの?」
「そ、そんな、なにもしてないよ」
わたしは慌てて否定する。
「いいな〜さつきの胸。見てよ、わたしなんて、こんなに小さくって」
そう言いながらみっこは、小振りだけど、乳首がつんと上を向いて形のいい胸を、わたしの方に向ける。なんだか、友だちの胸をまじまじ見るのって、恥ずかしいなぁ。
「あ〜あ。モデルの友だちなんて持つもんじゃないな〜。人にはだかを見せることなんて、なんとも思ってないんだもん」
「失礼ね。あたしのからだは『はだか』じゃなくて、『アート』なのよ。全世界がこのアートにひれ伏すんだから」
「うわっ。すっごい自信」
「冗談に決まってるじゃない」
『クスクス』
そのとき、薄いつい立ての向こうから、川島君の抑えた笑い声が漏れてきた。
ううっ。もしかして?
わたしたちのおバカな会話が丸聞こえだったんだわ。
わたしとみっこは顔を見合わせた。
「は… 早く着替えよ、みっこ」
「そうね」
なんだか顔から火が出るほど、恥ずかしくなってしまった。

 わたしたちが更衣室から出ると、川島君は両手に缶ジュースを持って、ビーチに立っていた。
「残念。全世界がひれ伏す『アート』は、拝めないのか」
わたしたちにパインジュースを差し出しながら、川島君は茶化すように言う。
「もうっ。川島君ったら」
わたしがそう答えると、みっこは不敵に微笑んだ。
「ふふ。そんなに拝みたいなら、特別に見せてあげるわよ」
みっこはいたずらっぽく微笑むと、背中のブラのホックをはずしてひもを持ち、両手を広げる。
「えっ。森田さん」
「みっこ!」
「…なぁんてね」
みっこはギリギリのところで手を止めてそう言って笑うと、ホックをとめなおした。
この子って、人がドキドキするようなことを、平気でやっちゃうのよね。
「川島君って、口ほどにもなく、純情なんだ」
あわててみっこから目をそらした川島君を見て、みっこはおかしそうに笑った。
う〜ん… やっぱりみっこの方が、一枚上手かもね。

 わたしたちが着替え終わるとすぐに、メイクの仲澤さんがやってきた。
「森田さん。日射しが強いから、これ塗って下さい。わたしがしますから」
そう言いながら彼女は、日焼け止めを差し出す。
「そうね。じゃあ、お願いします」
みっこはそう応えて、なぎさのビーチパラソルの下に並べられた、ビーチチェアに寝そべる。仲澤さんはみっこの背中にクリームをタップリと乗せ、広げはじめた。クリームで濡れた肌がテカテカ光って、そのままコマーシャルの絵になりそう。
「川島君、なにぼんやりしてるの? さつきにも早く、日焼け止め塗ってあげてよ。すぐに真っ赤になっちゃうわよ」
「そうだな。さつきちゃん、横になって」
みっこに促されて、川島君はみっこの隣のビーチチェアを指差す。
え? 川島君が塗ってくれるの?
なんだか嬉しいような、恥ずかしいような…
わたしが横になると、川島君はクリームを手に取り、背中の上に伸ばしはじめた。

わたしの背中をなぞる、大きな手。
そのごつごつとした感触が、わたしのからだにまったりとした快感を残していき、手が離れたあとも、余韻が残る。
川島君の手は背中をまんべんなく撫でると、肩甲骨をなぞり、肩から二の腕を握るようにしていく。
それから翻って、ふたたび背中を下の方に滑っていくと、腰からさらに下に、手が伸びていく。
「やん。くすぐったい」
わたしは思わず声を出した。
「あ。ごめんよ」
そう言いながら川島君の手は、わたしの太ももの裏側をやさしく愛撫するようになぞる。どうして好きな人に触られると、気持ちいいんだろ? なんだかジンジンくるような疼き…
川島君とは『Moulin Rouge』でキスして以来、少しずつお互いのからだに触れるようになったが、まだそんなスキンシップに慣れていないというか、あんまり触れられすぎると、突然やってくる妙な感覚に戸惑ってしまって、怖くもなる。
「あ、ありがと。あとは自分でできるから」
お尻の下あたりに触れられたとき、思わずからだの奥がきゅっと締めつけられるような快感に戸惑い、あわててわたしは、ビーチチェアからからだを起こした。

 そうしているうちに、スタッフのみんなが水着姿でビーチにやってきた。
「やあ、みっこちゃん。お待たせ」
「あらぁ。みっこちゃん、いかした水着着てるわね。それ撮影用?」
「センセ、乙女に対する褒め方が違うわよ。『あたしがいかした水着着てる』んじゃなくて、『いかしたあたしが水着着てる』でしょ?」
「みっこちゃん、相変わらずね〜」
藤村さんと星川先生の間で、じゃれるように両手を組んだみっこは、天真爛漫な微笑みを見せていた。
「みんなも来たし、さっそくゲームしましょ。ビーチバレーボール」
「みっこちゃんはいつまでも子どもだねぇ」
「んもう。『ちゃん』づけはやめてって、言ってるのに」
「みっこちゃんにもう少し色気が出てきたら、『美湖さん』って呼んであげるよ」
「それもなんだかイヤだな〜」
おとなの中にいて、全然違和感なく会話をするみっこ。わたしじゃこうはいかない。
みっこが年の割に、考え方も言動もおとなっぽく感じるのは、こうやって小さい時から、おとなに混ざってモデルの仕事をしているからだろな。

 みんなでビーチバレーボールをやったり、ダイビングを習ったり、ボートに乗ったりして遊んでいるうちに、陽は西に傾き、インディアナ・オーシャンは綺麗な緋色に染まっていった。

「ねえ。太陽が海に沈むのを見に行こうか?」
みっこは、陽に焼けてほんのりと色づいた肌を、インド更紗のサリーに包むと、ホテルの裏の小さな丘に、わたしと川島君を案内した。
 丘の上はかすかに風が吹いていて、うなじを抜ける空気の流れが心地よい。
わたしは水平線の彼方に、今にも身を沈めそうにのたうつ、紅い太陽を見つめた。
「よく聞いててね」
さっきまであんなにはしゃいでいたみっこは、金色に染まった夕陽に似合うような、しっとりとした口調で言う。
「海に太陽が触れた瞬間。『ジュッ』って音がするのよ」
「ほんとに?」
「ええ」
遠い大気が大きな丸い輪郭を震わせ、夕陽は揺れながら海へと近づいていく。
そして太陽が海に触れた瞬間、燃える赤い球は炎を水平線にまき散らし、海は沸騰したかのように、泡立って見えた。
そんな眺めを見ていると、なんだかギュッと胸が締めつけられてくる。
「…聞こえた?」
「…みたいな気がする」
みっこの問いに、わたしは答えた。
「本当に、太陽は海に沈むんだな」
川島君は、はるか彼方の水平線を見つめて、静かにつぶやく。
「感動したよ」
そう言った彼を黙って見つめて、みっこは微笑んだ。

 

 モルディブの夜は、星明かりが砂浜を照らし、潮騒だけが漂う、神秘的な漆黒の世界。
かがり火を焚いたホテルの中庭のテーブルに並んだメニューは、お皿からはみ出しそうな伊勢エビに、ホタテやシャコ貝の貝柱。それにソースがたっぷりかかった、見たこともないようなカラフルな魚のソテーに、ローストチキンや大きなステーキ、甘酸っぱい香りのたちこめたトロピカルフルーツといった、8人じゃ食べきれないほどのリゾート・ディナー。
 みんなでワインで乾杯して、ご馳走を食べているうちに、わたしの緊張も少しづつ解けてきた。
はじめは、こんなすごいプロフェッショナルな人たちとうまくやっていけるのかと、とても心配だったけど、藤村さんや星川先生は、撮影の裏話やみっこの昔のエピソードを話してくれたり、写真のうまい撮り方を教えてくれたりと、わたしたちに気安く接してくれる。
わたしたちは何度も乾杯を繰り返した。

「さつきちゃん。みっこちゃんはこの業界じゃ『お姫様モデル』として、有名だったんだよ」
藤村さんはワイングラスを掲げながら、機嫌よく話しはじめた。
「『お姫様モデル』ですか?」
「いつでも優雅にニッコリ微笑んで、自分のわがままを通してしまうのさ」
「文哉さんったら…」
みっこは恥ずかしげに藤村さんをつつく。そんなみっこを横目で見ながら、彼は愉快そうに続けた。
「メイクが気にいらないと、何度でもやり直させるし、嫌いなカメラマンの前じゃ、ポーズをとろうともしない。星川さん、あのときのこと、覚えてる?」
藤村さんが話を星川先生に振る。
「ええ。あれはみっこちゃんがまだ、中学生の時のことでしょ? CF撮りをやってて、監督が絵コンテを勝手に自分流に解釈して、みっこちゃんに妙な動きの指示を出した時のこと」
「そうそう。そのときみっこちゃんは、カメラが回っているのに、セットからニコニコと降りてきて、カメラのファインダーを覗いて、『ダメね』って、監督にひとこと言ったんだ。ぼくは側で見ていて、冷や汗かいたよ。さつきちゃん、これがどんなにすごいことか、わかる?」
「監督にダメ出しするなんて、すごいって思いますけど…」
「それだけじゃないよ。カメラのファインダーってのは、監督とディレクターと照明さんしか覗けないってのが、この業界の『しきたり』なんだ。一介のモデルが口を挟む余地なんかないのさ。なのにみっこちゃんは、堂々とファインダーを覗いて、ちゃんとコンセプトにあった演技をし、結局、監督を黙らせたんだからな」
「へえ〜。なんか、みっこらしいですね〜」
「そうよね〜。ほかにも、アシスタントがレフをうまく扱えないでモタモタしてるときも、彼にモデルをやらせて、自分がレフ板を当ててたりしてたこともあったわよね。衣装のコーディネイトがおかしいと、スタイリストがだれだろうと容赦なくダメ出しするし、まったく、みっこちゃんと仕事をしていると、ハラハラしっ放しよね」
「まったく『わがままお姫様』だよ」
「失礼ね。『完璧なプロ根性』と呼んでほしいのに」
そう言ってむくれるみっこを見て、藤村さんはさらに愉快になったらしい。
「あははは。彼女のわがままにまともにつきあえるのは、星川さんくらいしかいないよな。みっこちゃんはファザコンの気があるし、星川さんはロリコンだから、ちょうど気が合うのかな?」
「あたし、ファザコンじゃないもん」
「失礼ね。私もロリコンなんかじゃないわ」
みっこと星川先生は、いっしょになって反論する。星川先生は笑いながら続けた。
「でも私。みっこちゃんを撮るのは大好きよ。去年は寂しかったけど、あなたがモデルに戻ってきてくれて、本当に嬉しいわ」
「ありがと、センセ」
はにかみながら肩をすくめてみっこはそう言うと、藤村さんの方に向き直った。
「文哉さんも、少しはあたしがモデルに復帰したことを、喜んでくれたらどうなの? 意地悪なことばっかり言うんだから」
「はははは。もちろん喜んでいるよ。こうやってまた、お姫様といっしょに仕事できて、天にも昇る気持ちだよ」
「もうっ。な〜んか白々しいんだから」
プンとすねた振りをして、みっこは伊勢エビのはさみで、藤村さんの鼻をつまんだ。

そうか。
このメンバーって、みんな古くからのつきあいだったのね。
そのとき、わたしの隣に座っていたメイクの仲澤さんが、ポツリとつぶやいた。
「わたし、ほんとはすごく、緊張しているの」
「え?」
わたしは彼女を見た。ソバージュのヘアの陰から、かがり火に仄かに照らされた不安げな表情が、ちらりとのぞく。
「わたしまだ23歳なのに、こんな大きな仕事を任されて、うまくやれるかどうか… 森田さんって厳しそうだし」
「心配いらないわよ」
みっこがテーブル越しに身を乗り出して、仲澤さんの手をポンポンとたたいた。
「あたし、仲澤さんのセンスって、とってもいいと思うわ。新鮮で、品がよくて、魅力的で。
これは大きなチャンスじゃない。アルディア化粧品の夏キャンのメイクなんて、だれもが望んでできる仕事じゃないんだから、抜擢されたことに自信を持って、いっしょに頑張ろ!」
みっこが仲澤さんを見つめて微笑むと、彼女もコクンとうなずき、明るい表情になった。
みっこはいつだって、ムードメーカーになるのが上手。
「みっこちゃんはわがままなようで、いつでも回りに気を遣っているんだよ」
藤村さんはみっこに気づかれないように、そっとわたしにささやいた。

 

 パーティがわりのディナーがお開きになったのは、夜の8時頃。
今日一日、遊び回ったわたしたちは、明日からの撮影に備えて、早めにそれぞれの部屋へ引き上げることになった。
おやすみの挨拶のあと、みんなはロビーで別れ、それぞれの部屋に戻っていく。みっこはメイクの仲澤さんと同室することにし、階段を上がっていった。
「さつきちゃん、行こうか」
だれもいなくなったロビーで、川島君の声だけが、やたらと響く。
その言葉に、ドキッと心臓がひとつ鳴り、わたしは昼間のことを思い出した。

『あなたたちはいっしょの部屋でいい?』
みっこはそう言って、わたしたちにルームキーをひとつ差し出した。
『え? わたしと川島君?』
『ええ』
『あの…』
『いいですよ』
鍵を受け取るのを戸惑っているわたしの横から、川島君がそう言いながら手を伸ばした。
あのときからわたしは、この瞬間が来るのを心待ちにしていた反面、怖くて逃げ出したくもあったんだ。

 はじめてキスをした、ディスコでの夜から、わたしと川島君の関係は、また少しずつ変わりはじめたように感じていた。
川島君は相変わらずやさしく、あったかい微笑みも、以前と少しも変わらない。
喫茶店で向かい合ってのおしゃべりも、わたしが憧れていたような恋人同士そのもので、わたしは満たされていたはず…

…なんだけど、心の…

ううん…

からだのどこかに、もやもやとした満たされないものが、溜まりはじめていた。

デートの帰りの夜。
川島君はわたしを、いつものように、家の前まで送ってくれる。
川島君は駅からの帰り道に、少し遠回りの薄暗い公園を、わざわざ通る。
川島君は肩を抱く。
わたしは彼の肩によりかかる。
ひとけのない公園の中で立ち止まると、彼はわたしを抱きしめ、キスをする。
長いキス。
そうしながら、川島君の指がわたしのからだをなぞっていく。
その手が、ブラウスの中に忍び込み、わたしの素肌にじかに触れる。
いつのまにかブラのホックをはずし、胸のふくらみをやさしく撫でている。

そんな風にされると、たまらない。
なんだか、からだの芯からじんわりと熱いものがこみ上げてきて、思わず短い声が漏れ、しっとりと潤うような感覚が溢れ出し、もっともっと、川島君がほしくて、むずむずしてくる。
そんなわたしを川島君に見られるのは、とっても恥ずかしくてイヤなんだけど、もう、理性じゃ止められない。

 川島君とモルディブへ行くことが決まったとき、わたしはロマンティックな南の島で、彼といっしょに過ごす熱帯夜はどんなに楽しく、なにが起こるのか、妄想と好奇心でいっぱいになった。
もちろんわたしだって、なにも知らないわけじゃない。
だけど、知識として知っていても、わたし自身が知らない扉をはじめて開くときには、やっぱり躊躇してしまうもの。

 ホテルの部屋に入ると、川島君はカチリとドアを閉め、鍵をかけた。その固い金属音に、ちょっと緊張してしまう。
外の音は閉ざされ、空気がいきなりふたりだけのものになる。 
リゾートホテルらしい、エスニックの香り漂う木目調の部屋は、仄暗く、籐のテーブルとカウチソファー。それから、真っ白な天蓋のついた大きなベッドがふたつ。その回りにはかすかに明かりの灯ったランプがあって、ベッドにかかった緋色の毛布を、艶(なまめ)かしく浮かび上がらせ、いやがうえにもムードを高めている。
こんな素敵な部屋で、一生一度きりの思い出を、いちばん好きな人と作れるのは、本当に素敵なこと。
そう期待してるんだけど…
わたしは、そんな期待とはうらはらに、まるで川島君から触られるのをイヤがるように、窓際に立つと背中を向けて、外の景色を見ているふりをした。

「別々の部屋がいいなら、森田さんにそう言ってくるけど」
わたしの気持ちを敏感に察したかのように、背中越しに川島君が言う。
「え? そうじゃなくて… このままで、いい」
思わずそんな返事をしてしまい、わたしはもう、あとに引けなくなってしまった。
「やっと、ふたりきりになれたね」
川島君はわたしをうしろから抱きしめ、ささやく。わたしは緊張でからだを固くこわばらせる。
「今日、こうやって、さつきちゃんといっしょにいられて、ほんとうに嬉しいよ」
そう言いながら、彼はわたしの肩を抱いて振り向かせると、やさしくキスをする。いつもは甘くあたたかく感じるこのひとときも、なぜか今日ばかりは、からだが震えていた。
「こ… 紅茶を飲みましょ。わたしなんだか、喉が渇いちゃった」
そう言い訳して、わたしはキスの途中で顔を背け、川島君の腕をすり抜けた。

 ティーポットに本場スリランカの、『ウヴァ・ティー』の葉っぱを入れ、わたしと川島君はカウチソファーに黙って並んで座った。
ティーカップに紅茶を注いでいるときも、わたしたちは無言のままだった。

…なんだか気まずい。
川島君はわたしが拒んだことを、怒っているのかもしれない。
もしかしてわたし、嫌われちゃったのかな?

わたしは彼の顔が見れず、カップに浮かぶ紅茶のゴールデンリングを見つめながら、言った。
「…ごめん」
「なにが?」
川島君はじっとわたしを見つめる。
「『なにが?』って言われても…」
「キスをやめたこと?」
「…」
わたしは黙ってうなずく。
「ぼくの方こそ…」
そう言った川島君を、わたしはおずおずと振り返る。
「ちょっと動揺しちまったかな〜。さつきちゃんに嫌われたかと思って」
「そんなこと、ない」
わたしはかぶりを振った。川島君は安心するかのように、息をつく。
「ごめんよ。さつきちゃんの気持ちも考えずに、暴走しちまって」
そう言って川島君は言葉を区切り、紅茶に口をつける。
「安心しなよ。さつきちゃんの準備ができるまで、ぼくはいつまでも待つよ」
「川島君、やさしいのね」
「はは… なんか思い出すな」
「なにを?」
「去年の、まだ、つきあいはじめる前に、こうやって紅茶を飲みながら、『紅茶貴族』で話したことがあっただろ。『みんな、人間性を磨くより、凸凹をくっつけることにばっかり熱心だ』って」
「そういえば… そんな話、したわね」
「あの頃は、そうやって相手のからだを求めることが、なんだか低級な欲望みたいな気がして、『お互いの人間性を高めるようなつきあい方がしたい』なんて、偉そうなこと言ってたけど、今じゃその欲望の中で溺れかけてる感じ。まったく、だらしない話だよな」
「そんなことない」
「やっぱりぼくは、なにも分かっちゃない、ドーテー君だったよ」
「え?」
「好きな人の存在って、なんて言うか… 圧倒的なんだよな〜」
「…」
「キスしたときの唇とか、触れあった肌の感触が、寝ても醒めても思い出されちゃって、頭から離れないんだ。
ぼくはさつきちゃんのこと、とても大事にしてあげたいって気持ちはあるのに、さつきちゃんのことが欲しくてたまらない気持ちが暴走しちまって、そのふたつがぶつかりあって、自分が抑えられなくなるんだよ」
「…」
わたしは川島君の言葉を聞いていて、なにも言えなくなる。
「な〜んか、すっごく月並みでドン臭い言葉だけど、これが『おとなの階段』ってやつなのかなぁ〜」
自分の気持ちを茶化すように、川島君がおどけてみせる。
わたしは胸のあたりが、ジンと熱くなった。
だって…
わたしの気持ちも、川島君とまったくいっしょだったから…
わたし、そんな彼が大好き。
この人になら、わたしのすべてを委ねられる。
ううん。この人じゃなきゃ、イヤ。
ずっと川島君といっしょにいたい。
川島君といっしょなら、そんな階段だって、登っていくのも怖くはないかもしれない。
わたしは、ため息が漏れるような、小さな声で、言った。
「…いいよ」
「え?」
「『おとなの階段』。いっしょに登っても…」
「さつきちゃん…」

わたしは川島君を見る。彼もわたしの瞳をじっと見つめている。
部屋のランプが彼の瞳の中で揺らめいて、吸い込まれそうになってしまう。
長い沈黙。
川島君の顔を見ながら、かすかに漂ってくる彼の香りを匂っていると、頭が朦朧(もうろう)としてくる。
川島君はわたしの頬にそっと手を添え、ゆっくりと顔を近づける。
わたしは瞳を閉じた。

 キスのあと、川島君はわたしの手をとってベッドにいざない、わたしのからだをゆっくりと横たえ、自分もその隣に寄り添う。
サンドレスの衣ずれの音と、川島君の熱い吐息だけが、わたしの耳に聞こえてくる。
川島君の手がドレスの肩ひもにかかり、ゆっくりとほどかれていく。わたしはなにをすればいいのかもわからず、川島君のなすがままにしていた。

ドレスの前がはだけ、胸があらわになる。
「さつきちゃん。可愛いよ」
川島君は頬を紅潮させて言う。
「…いや」
わたしは恥ずかしさのあまり、うつむいてそう言ったけど、ほんとに拒むつもりじゃなかった。だけど、わたしのその言葉が合図だったかのように、川島君はわたしの頬や唇、耳に、たくさんのキスをしてくれる。
ひとつキスをされるたびに、わたしの頭は麻痺したようにぼうっとなってしまい、なんにも考えられなくなっていく。
「さつきちゃん。愛してる」
耳元で何度もささやきながら、川島君はわたしのはだけた胸を、やさしく愛撫する。
川島君の大きな手が、わたしのふたつのふくらみを暖かく包み込み、ほぐすようにゆっくりと、たわませる。敏感な神経が、わたしの中で甘くうずいて、くすぐったいような、それでいてたまらない心地。
「…んっ」
わたしは思わず声を漏らした。
「可愛いよ。さつきちゃん」
うっとりと響いてくる、低い声。吐息が熱い。
川島君の唇は、わたしの首筋をなぞり、いつのまにか乳首を愛撫していた。
ドレスの裾も気づかないうちにはだけているようで、川島君の熱い指が太ももを伝って、わたしの潤った部分に近づいてくるのを感じる。
「…恥ずかしい」
そう言ってわたしはからだを固くして脚を閉じ、両手で顔を隠し、小さな抵抗を試みたが、川島君の指は止まることなく、わたしの脚を開いていく。
川島君は自分の服を脱いで、わたしのからだにぴったりと寄せる。
彼の熱くて固いからだが、じかにわたしの肌に重なる。
「肌がふれあうのって、とてもいいね」
川島君はささやく。
うん。
なんだかあったかくて、安心できて、彼のすべてを感じられるようで、嬉しい。

幸せ。

ずっとこのままで、いたい。

 わたしがちゃんと覚えているのは、そのあたりまでだった。
わたしはただ、黙って目をつぶり、ベッドに横たわって、川島君のするままになっていた。
彼の唇や指先が、わたしのからだを通り過ぎていくのを、ただ、夢中で受けとめていた。
それがいつまで続くのか、どんな気持ちになればいいのかもわからず、本能のまま、彼の存在を感じていた。
川島君はわたしの閉じられた脚を割ってからだを寄せ、わたしの潤った部分に自分の腰を当てていたが、そうしているうちに、不意に激しい痛みが、わたしのからだを貫いた。
「いっ… 痛いっ! 川島君っ?」
「さつきちゃん…」
あまりの痛みに、わたしは思わず川島君の腕を掴んだけど、彼はしっかりとわたしを抱きしめる。彼は何度もわたしの名前を呼んだ。
「んうっ。川島君…」
激流に翻弄され、なにがなんだかわからないまま、わたしは彼にしがみつき、必死に歯をくいしばった。
川島君の吐息はどんどん速くなり、熱くなっていく。
真っ赤に焼けた熱いかたまりが、わたしの中で激しく脈打ち、意識が遠のく。
そのままわたしは、深い谷底に、どこまでもどこまでも落ちていった…

 ふと気がつくと、川島君はベッドの脇で、わたしを心配そうに見つめていた。
「もう… 終わったの?」
わたしがそう言うと、川島君は今まで一度も見せたことのないような、とってもやさしい、あったかな微笑みを浮かべた。
「痛かった? ごめんね」
「…ん。死ぬかと思った」
「でもとっても感動したよ。さつきちゃんの声。すごく可愛いよ」
「え? わたし声なんて出してたの?」
わたしは恥ずかしくなって、シーツで顔を覆う。
わたしって、どんな声を出していたんだろ?
自分がなにをして、どうなったのか、まるでわからない。
「でもありがとう。嬉しかった。ぼくの人生で最高の夜だったよ。さつきちゃんといっしょに、『おとなの階段』を登ることができて」
川島君はそう言って、わたしの髪をやさしく撫でる。わたしはシーツをかぶったまま、コクンとうなずく。
今はまだ、よくわからない。
自分のしたこととか、これからどうなっていくのかとか…
わからないけど、ふたりは今まで知らなかった、新しい扉を開いたのは確かよね。
わたしはそっと、隣に横たわる川島君のはだかの胸に、耳をあててみた。
コクン、コクンと、規則正しい音がする。なんだかとっても安心できる響き。

「わたし… ひとの心臓の音を聴いたの。はじめて」
「そう… そうだよな。ぼくも聴いてみていい?」
そう言って川島君は、わたしの胸に耳を当てる。
「さつきちゃん。生きてる」
「…ん」
自分の胸元にいる川島君がとっても愛しくて、わたしは彼の髪を、やさしく撫でた。
「なんだか、気持ちいいな。髪を撫でられるのって」
川島君はそう言って、上半身を起こし、わたしの頭に腕枕をして、自分の鼻をわたしの鼻にくっつけた。
「ぼくは今、最高に幸せだよ。こうやって大好きなさつきちゃんと、肌を重ねられて」
そう言いながらわたしを見つめ、彼はやさしく髪を撫でる。
くすぐったいけど、気持ちいい。
なんだかとっても安心できる手触り。
昔,お母さんやお父さんが、お布団の中で、わたしの髪を撫でてくれた。
そんな懐かしい感触を憶い出しながら、わたしはいつのまにか眠りについた。




 モルディブの朝は青かった。
まだ夜の色が抜けきらない澄み切った空に、いきなり太陽が昇っていき、薄水色の風が、ベッドで眠るわたしの頬を、心地よく撫でる。

わたしはカーテン越しに差し込むまぶしい光で、目を醒した。
隣には川島君が眠っている。
白いはだかの胸が、朝の光にまぶしく映る。
そうだった…
ふたりとも、なにも着ないで眠ったのよね。

「なんだか… からだが重い」
はじめて迎える南国の爽やかな朝だというのに、軽いけだるさで、気分はくすんでいる。
朝のなぎさを歩けば少しは気も晴れるかと思い、わたしは川島君を起こさないように、ベッドをすり抜けた。

「あ。みっこ、おはよう」
「おはようさつき。ずいぶん早いのね」
海岸を散歩していたわたしは、なぎさで軽くストレッチをしていたみっこを見つけ、声をかけてみた。
「朝から運動?」
「撮影前に、ちょっとからだをほぐしとこうと思って。さつきは夕べはよく眠れた?」
「ううん… なんだか気だるいの」
「気だるい? 大丈夫?」
「うん。なかなか寝つけなかったから…」
わたしの言葉に、みっこは察したようにクスッと笑う。
「川島君、寝かせてくれなかったの?」
「えっ?」
みっこの言葉に、わたしは顔から火が出るくらい恥ずかしくなって、うつむく。
わたし、なんてことしちゃったんだろ?
信じられない。
なんだかすごく、非現実的…
ううん。
『非日常的』っていうのかな?
そのときの川島君もわたしも、いつものふたりとは全然違っていて、ただのひとつがいの動物になっていたような感じ。
どうしてあんな、はしたないことができちゃったんだろ?

「わたし… はじめてだったの」
思わずみっこに告白したものの、恥ずかしさで顔が上げられない。
「そっか…」
みっこは屈伸をやめて、わたしに向かって、ニッコリ微笑みかけた。
「おめでとう、さつき」
「おめでとうって…」
「座らない?」
みっこはなぎさに腰をおろしながら、わたしにも促す。わたしはみっこの隣に座る。まだ水平線の低い所にある太陽は、わたしたちに真横から光を投げかけ、モルディブの景色に深い陰影を刻んでいた。みっこはまぶしそうに、太陽に手をかざしながら言う。
「なんだか、羨ましいな〜」
「え?」
「モルディブにはね、3年前に直樹さんと来たことがあるの。そのときあたし、直樹さんと一晩中抱きあってたの。幸せだったな〜…」
「みっこ…」
「ふふ。大丈夫よ。だけど、肌を重ねあえる人がすぐ近くにいるって、最高に幸せなことよね」
「う… ん」
そう言えば、川島君も同じようなことを言ってたな。
『ぼくは今、最高に幸せだよ。こうやって大好きなさつきちゃんと、肌を重ねられて』
って。
「でも、まだなにか、実感わかないのよ。嬉しいような、怖いような…」
「まあ、恋愛って… 頭で考えるものじゃないと思うわよ」
「うん… そうよね。後悔はしてないわ。わたし、川島君とこうなれて、ほんとに幸せだと思ってるもの」
そう言うと、みっこはわたしを見つめて、わずかに翳りのある表情で微笑んだ。
斜めからさす太陽の、陰のせい…

 部屋に戻ると、テーブルには暖かい湯気を立てた紅茶と、焼きたての香ばしい香りのするトーストや、スクランブルエッグが用意されていて、川島君がバスローブ姿で、牛乳をコップに注いでいるところだった。
「おはよう」
テーブルにミルクピッチャーを置きながら、川島君は言う。
「お、おはよう。ごめんなさい。ちょっと散歩してて…」
わたしの言葉に川島君は、安堵したように微笑む。
「夜、いっしょのベッドに寝ていた人が、朝いないのって、すごい不安なものなんだな」
「ごめんなさい」
「いいよ。ちゃんと帰ってきてくれたから。さ、食事しよう。撮影の時間に遅れるよ」

 テーブルについて、川島君といっしょに朝食をとるのって、妙におもはゆい。
だけど、昨日までふたりの間にあった見えない大きな壁が、たった一晩で、なくなってしまったような気もする。
わたしは食事をしながら、川島君の姿をチラチラと覗き見た。
わたしを愛撫した彼の指先。
キスしてくれた唇。
愛をささやいたのど仏。
ぎゅっと抱きしめた太い腕…

今までとは違って、そんなものがなんだか身近に感じられ、生理的な愛着みたいなものを、川島君のからだに感じる。
今はまだ、顔を合わせるのも恥ずかしいし、ぎこちないけど、ふたりのからだのうちに、新しい愛情の形が生まれてきたのを、お互いが分かりあっていたと思う。

 

 食事のあと、わたしたちは急いで支度を整え、今日撮影をする予定の、水上コテージのあるビーチへ出た。
途中、川島君は撮影機材が置いてある部屋へ入り、両肩に大きな銀色のアルミバッグと三脚やスタンドが入ったバッグを持って出てくる。
「うわ。すごい、川島君、それひとりで持てるなんて!」
「はは。カメラマンは体力勝負だから。このくらいは担げなきゃ」
そう言いながら機材を運ぶ彼は、なんだか頼もしかった。

「おはよう。川島君にさつきちゃん。ずいぶん早いわね」
「お、川島君。もう機材出してるのか。熱心だな」
カメラマンの星川先生と首藤さんたちが、カメラや機材を抱えてビーチにやって来て、わたしたちに挨拶してくれた。川島君はまるで、ずいぶん前からアシスタントの仕事をしていたかのように、みんなに自然に混じって撮影機材を組み上げていく。途中から藤村さんも姿を見せた。

「やあ、さつきちゃん、おはよう。モルディブの朝はどうだい?」
「とっても気持ちいいです」
「それはよかった」

そんな挨拶のあと、藤村さんは今日の撮影の流れと、最終的に変更になった部分などを伝えてくれた。
マネージャー代理のわたしの仕事は、みっこのスケジュール管理と、身の回りの世話。
「じゃあわたし、みっこの様子を見にいってきます」
そう告げてわたしはホテルに戻り、みっこの部屋をノックする。
「はい」
返事があって、みっこが顔を出す。
「よろしくね。あたしのマネージャーさん」
みっこはそう言って、ウィンクした。
あらかじめ貰っていたスケジュール表を取り出し、わたしはみっこに今日のスケジュールと、藤村さんから言われた変更点を告げる。
午前中にポスターのメインビジュアルを何パターンか撮影し、お昼の休憩を挟んで、午後からは機関誌のカット撮影。他にも販促物のイメージカットや、雑誌用の写真など、今日だけでもいろんな撮影があるみたいで、大変そう。

「おなかすいたぁ〜」
鏡台の前で、仲澤さんからメイクのベースを塗ってもらいながら、みっこは声を上げる。
「みっこ、朝ごはん食べてないの?」
「朝ごはんどころか、昨夜のご馳走にもあまり手をつけてないわよ」
「えっ? どうして?」
「だって今日はいきなり水着撮影でしょ。おなかぽっこりじゃ、仕事にならないもの。あ、さつき悪いけど、冷蔵庫の中にチョコレートとミルクがあるから、取ってちょうだい」
わたしは冷蔵庫から、チョコレートとミルクの入ったコップを取り出し、みっこに差し出す。
「ありがと。メイクができあがる前に、栄養だけはつけとかないとね。美穂さん、ちょっと待って」
仲澤さんにそう言って手を止めさせると、みっこは大急ぎでチョコレートをかじり、ミルクを数口飲んだ。
仲澤さんはみっこの肌の調子を、念入りにチェックしている。
化粧品のCMだから、その辺はかなり気を遣うんだろうなぁ。『最近はパソコンで、肌のトラブルを修正するようになってきた』と、昨夜星野先生たちが話していたけど、最初から綺麗な肌の方がいいに、決まってるわよね。
「みっこちゃん、うまい具合にほんのりと焼けたわね」
「でしょ。水着の線とか気をつけていたし、ムラにもなってないでしょ。美穂さんが上手に日焼け止め塗ってくれたおかげよ」
「どういたしまして。だけど羨ましいわ〜。みっこちゃんってお肌のトラブル、ほとんどないんだもの」
「ありがと。でもそれって、仕事しないでグータラ大学生してたからかも。仕事が忙しくなってきたら、いやでも肌が荒れてくるわ」
「あは。またそんなことを」
仲澤さんはそう言って微笑む。昨日はあんなに緊張していた彼女だけど、もうすっかりみっこと打ち解けて、リラックスしている。

「メイクだいたいできた? そろそろ髪をあたらせてちょうだい」
そう言いながら、ヘアメイキャッパーのYUKOさんが部屋にやってきた。
「みっこちゃんも今年でもう、20歳(はたち)なのね〜。道理であたしも老けるはずだわ」
「え〜。YUKOさん、全然そんなことないわよ。むしろ若返った気がするわ」
「そう? やっぱり愛のチカラかしら?」
「そう言えば、前の彼氏さんとは、あれからどうなったの?」
「それっていつの前カレ? みっこちゃんがお休みしている間に、わたしも愛の遍歴、重ねたわよ」
「それでますます女に磨きがかかったのね。YUKOさんって、男の生気を吸って生きてるみたい」
「まあ。人を吸血鬼みたく言っちゃって。相変わらず口の悪い子ね〜」
そう言いながらYUKOさんは機嫌よく、みっこの髪を巻いていく。

「みっこちゃん。お久し振り〜」
しばらくすると今度は、長い巻き髪が綺麗な、背の高い女の人が、みっこに小さく手を振りながら、部屋のドアから顔をのぞかせた。
「お久し振りですー。瀬奈さん!」
みっこも応えるように、笑顔で手を振る。
「今日は張り切って服選んできたわよ。ほら、これなんか可愛いでしょ。機関誌用のリゾート着にと思って」
『瀬奈さん』と呼ばれた女性は、はしごレースとピンタックが綺麗に並んだ白いワンピースを、自分に当てて見せる。ああ。この人はスタイリストさんなのね。
「わぁ、『PINK HOUSE』ですか? 綺麗なラインですね。さすが瀬奈さんチョイス!」
みっこは髪を巻かれながら、瀬奈さんのかざしたドレスを見て、嬉しそうに微笑む。
撮影前だというのに、みっこの部屋はそんな緊張を感じさせない、なごやかな雰囲気だった。

 メイクとヘアがだいたい完成して、わたしたちがビーチに出たときには、撮影セットも完成していて、三脚には蛇腹のついた大きなカメラが据えつけられ、砂の上にはたくさんの太いコードが這っていて、それがストロボなどに繋がり、3メートルくらいの高さに組み上げられたパイプの上には、大きな白い半透明のディフューザーが空を覆っていた。
 みっこはディレクターチェアに腰かけて、仲澤さんとYUKOさんから最後の仕上げをしてもらいながら、藤村さんとデザインのラフ画を見て、動きやポーズの確認をしている。
南の島だというのに、暑苦しそうなスーツを着た男性や、それとは対照的な、個性的でラフなカッコをした男性が数人やって来て、それぞれ藤村さんに挨拶をする。彼の丁寧な対応を見ていると、どうやらクライアントのお偉いさんたちや、広告代理店のプロデューサーさんに営業さんたちみたい。撮影の現場はどんどん人が増えていき、賑やかになってきた。
『知らない人が増えてくると思うけど、さつきちゃんはとりあえず、元気よく挨拶していればいいよ』
と、藤村さんがアドバイスしてくれたので、そういう人を見かけるたびに、わたしは明るく挨拶するのを心がけた。

「はじめまして。あなたがみっこの友だちのさつきさんだね」
そう言って、眼鏡をかけて開襟シャツを着た、40歳くらいの知的な顔立ちの男性が、みっこの隣に立っていたわたしに近づいてきた。
「わたしの事務所の社長兼マネージャー、高野さんよ」
みっこが、わたしに紹介する。
「はじめまして。おはようございます!」
「元気いいね。今回はマネージャー代理のお仕事、ご苦労さま。みっこがどうしても『早い便で現地入りしたい』って言うけど、ぼくの予定がつかなくてね。今回はありがとう」
「い、いえ。わたし、たいしたことできなくて」
「あのみっこが、『君をぜひに』っていうくらいだから、ふたり、仲がいいんだね」
そう言って高野さんは微笑んだ。
『あのみっこ』って… みっこってモデル業界の中じゃ、いったいどんな存在なんだろう?
「これからはぼくがみっこのスケジュールとか見るから、弥生さんは彼女の面倒を見てくれるだけでいいよ」
「心配しないでさつき。あたし面倒なんてかけないから」
そう言ってみっこは笑う。わたしのマネージャー代理の仕事は、もう終わったってことか。こんな楽な仕事でここにいて、なんだか申し訳ないな。

「あ、さつきちゃん、ヒマそうね。ちょっとそこに立ってみて」
みっこの側にぼんやり立っていたわたしを見て、星川先生がそう言い、大きなディフューザーの下で日射しが柔らかくなっている、砂浜の真ん中を指差した。
「ここですか?」
わたしは、大きなアンブレラがついたストロボに囲まれた、指示された場所に立つ。
「いいわよ。そのままね〜」
そう言って星川先生は黒い幕を被って、カメラのファインダーを覗き込む。首藤さんが露出計を、わたしの顔の前にかざした。

“パシッ”

一瞬真っ白い閃光が光り、思わず目をつぶってしまう。首藤さんは露出計の数値を、星川先生に告げた。
「顔、F22」
「もうちょっと開けるわよ。ハレ切って測ってみて〜」
首藤さんが露出計に手をかざして、わたしの前をあちこち動かし、続けざまにストロボが光った。
「いいわね〜。これで一度ポラ切ってみましょ。さつきちゃん、ちょっとポーズ作ってみてよ」
「え? ポーズって…」
そんな、いきなり言われても、どうしていいかわからない。
わたしは適当に脚を交差させ、両手を前に組んでみる。
「あら、可愛いわね〜。じゃあそのままね」
そう言って星川先生はシャッターを切り、またストロボが光る。
う〜ん。なんだかモデルになったみたいで、ちょっと気持ちいいかも。
星川先生はカメラから取り出したポラロイドフィルムを、パンパン叩いたり仰いだりしていたが、しばらくするとそれをみんなで覗き込んで、何ごとか話し合っている。
「さつきちゃん、もう一度ね〜。は〜い、いくわよ〜」
ストロボの位置やカメラの設定をちょこちょこといじったあと、星川先生はそう言ってまたシャッターを切った。そういうのを何回か繰り返して、星川先生は宣言するように言った。
「こちらはいいわよ〜。ぼちぼちいきましょうか」
その声で、現場の空気が一瞬、緊張する。
みっこはディレクターチェアから立ち上がり、羽織っていたローブを脱ぎながら、こちらに歩いてくる。
昨日着ていたハイレッグカットのビキニの水着。
「交代よ。さつき、可愛かったわよ」
わたしの肩にポンと手をかけて、みっこは微笑んだ。
「じゃあ、いくわよ〜、みっこちゃん」
星川先生の言葉で、みんながいっせいにみっこに注目する。わたしもみっこが座っていた椅子の側から、ビーチに立つみっこを見つめた。

えっ…

さっきまでの彼女と同じ筈だけど、なにかが違っている。
みっこの表情は厳しい。真剣そのもの。
彼女は鋭い瞳で、カメラを構えた星川先生を見つめる。
ちょうど、ネコ科の動物が獲物を狙うような、相手の動きのすべてを、見切ろうとするかのような視線。
「じゃあ、最初は軽くね。みっこちゃんいいわよ。そう。目線ちょうだい」
先生がそう言うと、みっこは大きく息を吸い、気合いを入れるように、一瞬両手を握りしめると、まるで人が変わったかのようにこやかな表情になって、くいっと胸を張り、腰をきゅっとひねってポーズを作って、カメラを見つめてニッコリ微笑む。
「いいわよ〜。そのまま目線飛ばして〜」
星川先生はみっこに指示をしながら、どんどんシャッターを切る。そのたびにみっこは、ポーズを少しずつ変えていく。
わずかに肩をすぼめ、首をかしげる。
唇のかすかなニュアンスが変化していき、夏らしい明るい笑顔から、ちょっとアンニュイさを込めた微笑みまで、様々な笑顔を見せる。
そうしながらみっこは、ゆっくりと砂浜に腰をおろし、女らしさを強調するかのように優美なウエストラインを作り、愛らしくレンズを見つめる。
いつものみっこと違わないようで、どこかいつもとまったく違う…
すべてがよそいきの表情で、それがとっても絵になっているんだ。
そしてすごいのは、どんなポーズをとっても、シャッターを押す瞬間、ピシッとポーズが止まること。
脚を上げるようなポーズでも、みっこはからだの芯が少しもブレることがない。それはダンスでからだを鍛えているからこそ、できることだろな。
彼女が『あたしのからだは『アート』なのよ』と言うのも、あながち冗談じゃないのかもしれない。
それは、自分のからだを芸術にまで高める努力をした、みっこのプライドなんだろうな。

「さつきちゃん、そんな所で見てないで、こっちにおいでよ」
星川先生のうしろで撮影の様子を見守っていた藤村さんが、わたしを手招きした。
藤村さんが座っている椅子の横のテーブルには、今回の撮影の資料やカメラの機材、絵コンテ、試しに撮ったポラロイドフィルム、それに飲みかけの缶コーヒーやスナック菓子、灰皿にてんこ盛りになったタバコの吸い殻なんかが、雑多に置かれている。
「ほら、さつきちゃん。さっきのポラだよ」
そう言って藤村さんは、砂浜に立っているわたしが写った、ポラロイド写真を見せてくれる。
モデルのことは置いといて、それはとっても鮮やかな、素敵な写真だった。
まるで化粧品のコマーシャルのような… って、あたりまえか。
「すごい! モデルは悪いけど、素敵です!」
「ははは。そんなことないよ、可愛く写っているじゃないか。さつきちゃん。この写真、記念にあげるよ」
藤村さんはわたしの写っている写真を集めて、差し出してくれた。
「いいんですか?! これ、いただいても」
「かまわないよ」
「ありがとうございますっ!」
ふふ… なんか嬉しい。
みっこのポスターとお揃いの写真だなんて。

「まったく… たいした子だよ。みっこちゃんは」
藤村さんは、砂浜でポーズをとるみっこを、見つめながら言った。
「撮影になると、あっという間に集中する。そして、星川先生の意志を完全に見抜いて、それにもっともふさわしいポーズをとれる。この『とれる』ということが、どんなにすごいことか、さつきちゃん、わかる?」
「『とれる』?」
「みっこちゃん程度に綺麗な子なら、世の中にはけっこういるんだ。街を歩いていても、容姿が整っていて、ちょっとした表情やしぐさに、ハッとするきらめきを感じる子は少なくない。そうした子がモデルになると、すぐに人気が出て、売れっ子になるんだけど、それだけじゃあそういう子は、すぐに消える」
「え? どうしてですか?」
「そういう子は『自然に振る舞う』ことはできても、『自然に振る舞う演技をする』ことはできないんだよ。プロデューサーやカメラマンからいろいろ注文をつけられても、モデルとしての基礎と表現力がなきゃ、それに応えられないんだ。
モデルはね、見た目よりもずっと地味で、努力のいる仕事なんだよ。ビギナーズ・ラックなんて、長続きしないんだ」
「そう言えばわたし、CMでも、笑顔が引きつっているモデルさん、見たことあります」
「ははは。笑顔は難しいからね」
藤村さんは笑って、みっこに視線を戻した。
小さな頃からモデルになるためのレッスンを積んで、15年以上もモデルの仕事をこなしてきた森田美湖。
彼女はすでに、ビギナーなんかじゃない。
「一流のモデルはね、どんなカメラマンの注文でも、完璧にこなすんだ。望まれたポーズを望まれただけ、何回でも再生できる。それには訓練されたからだと頭の回転、そして勘のよさがいる。みっこちゃんはそれをすべて、備えている」
「でも… 昨日、藤村さんは『みっこは嫌いなカメラマンの前じゃ、ポーズをとろうともしない』って…」
わたしがそう言うと、藤村さんは愉快そうに笑った。
「あはははは… 彼女が嫌いなカメラマンは、ロクでもない写真しか撮れない奴らばかりさ。みっこちゃんは最高の仕事ができる相手にしか、微笑んであげないんだ。
だけどそんなことは、トップクラスの実力を回りから認められているからこそ、許されることなんだよ。駆け出しのモデルが、そんなわがままや好き嫌い言ってちゃ、その日から失業だよ。
彼女が15年かけて築いてきた実績と評価は、だれもが一朝一夕に超えられるものじゃない。だから彼女は『お姫様モデル』なんだよ」

みっこはからだをよじりながら、瞳のはしにわずかにエクスタシーを漂わせて、じっとレンズを見つめている。
澄んだ魅力的な瞳が、見る者になにかを訴えかけている。
「いいわよ。みっこちゃん。その表情! すこ〜し瞳を潤ませてみて」
ストロボが連続して光り、そのリズムに合わせるように、みっこは瞳を熱く潤ませ、わずかに唇をゆるめた。
「みっこちゃん。最高!」

 お昼の長い休憩を挟み、撮影はビーチからカナリーエンシスの生い茂る林の中、ホテルのプール、そして最後は水上コテージの中と移りながら、ワイン色に照り返す夕焼けの色が、少しずつ濁ってきた頃に、ようやく終わった。

「OK! みっこちゃん。お疲れさま」
「ありがとうございましたぁ!」
みっこはスタッフのみんなにとびきり明るくお礼を言うと、撮影で使っていた水上コテージのソファで、解き放たれたように、大きく背伸びをする。
「みっこちゃん、とってもよかったわよ。全然ブランク感じなかったわ」
「ありがと、センセ。あたしも久し振りに、やり切った感じがします」
「わたしもよ。明日はCF(コマーシャルフィルム)撮りだけど、頑張ってね」
「はい! じゃあ、お先に失礼しま〜す。さつき、行こ!」
みっこはそう言ってソファから立ち上がると、回りのスタッフみんなに「お疲れさま〜」と明るく声をかけながら、ホテルに帰っていく。
「みっこちゃん、相変わらずいい子よね〜」
みっこのうしろ姿を目を細めて見ながら、星川先生は嬉しそうに言った。
みっこのこういう気さくで明るい所が、スタッフからも好意的に思われているんだろうな。

 夕食は二日続きのプチ・パーティ。
その夜は、スチール撮影のスタッフや、広告代理店やクライアントの方に加えて、明日のCF撮影のスタッフもたくさん到着し、とっても賑やかになった。

「いやぁ。川島君はこまめに動いてくれるし、よく気づいてくれて、助かったわ」
「ありがとうございます」
「今度うちの事務所にも遊びに来なさいよ。歓迎するわよ」
「え? ありがとうございます。ぜひ伺わせてもらいます!」
星川先生は川島君を隣の席に呼んで、機嫌よくワインを飲みながら話をしていた。
「あなたみたいな若い人のセンスを、わたしも勉強しないとね」
「ぼくも今回の撮影は、とってもいい勉強になりました」
「これからのカメラマンは、カメラだけじゃなく、パソコンも使えないといけないし、大変ね」
「ぼくも専門学校では、デジタル写真について、もっと勉強したいと思ってるんです」
「デジタルカメラかい?」
チーフアシスタントの首藤さんが、川島君にワイングラスを勧めながら、口を挟んできた。
「ええ。88年に『FUJI』から『FUJIX DS-1P』って業務用のデジタルカメラが出たじゃないですか。去年の秋は一般向けに『Dycam Model 1』ってのが出たし、デジタルカメラは、写真の革命になるんじゃないかなと思うんです」
「デジタルカメラ? 『SONY』の『マビカ』みたいな電子スチルカメラとは違うの?」
星川先生は川島君に訊ねた。首藤さんがかわりに答える。
「先生、あれは磁気ディスクにアナログ記録するんですよ。だから、そのままじゃパソコンに取り込めないけど、デジタルカメラはSRAM-ICカードにデジタル記録して、すぐにパソコンに取り込んで、画像処理ができるんです」
「だけど、『マビカ』もまだまだ画質は悪いし、値段も高いじゃない?」
「今はまだそうですけど、将来はもっと画質もよくなって、値段も下がるんじゃないでしょうか?」
「そうだな。音楽はレコードからCDになって、デザイン業界も、Macを使ったデジタル編集に変わりつつある。写真だけがいつまでも、昔ながらのフィルムってことはないよな」
「デジタルカメラは画素数も、ビデオ並みの40万画素程度しかないんでしょ? とても仕事で使えるレベルじゃないわ」
「そうですね、先生。印刷物の線数に換算すれば、A3の大きさで、2400万画素くらいは必要って計算になるそうですから、まだまだですね」
「川島君。だけど、そういうのはすぐに改良されていくだろ。俺の予想じゃ、あと10年で印刷に使えるレベルになるぜ」
「ぼくもそう思います。デジタルは即時性が高いし、報道関係は真っ先に置き換わって、いずれポスターとかの印刷物も、デジタルで撮影するようになるんじゃないでしょうか?」
「それはありうるな。まあ、しばらくはフィルムの表現力には勝てないだろうがな」
「その頃にはわたしはもうおじいちゃんね。デジタルは若い人に任せて、わたしはフィルムを極めるわ」
星川先生はそう言って笑う。川島君がこうやって真剣に写真のことを話すのって、はじめて見たわ。男の人って、こういうメカニックなカメラ談義が好きよね〜。

 星川先生と首藤さんと川島君は、すっかり意気が合って、ずっと話し込んでいた。
わたしも川島君とはいろいろ話したいのに、なんだか残念。
「さつきちゃん、どうしたの? 元気ないみたい」
隣の藤村さんがそんなわたしに気づいて、話しかけてきた。
「え?」
「彼氏に放ったらかしにされて、淋しいのかい?」
「そっ… そんなことないです」
わたしは慌てて否定する。藤村さんって目ざとい。それとも絵里香さんのときのように、わたしの態度がわかりやすいのかな?
「川島君は星川センセたちと盛り上がってるし、文哉さんが、さつきの相手してあげれば?」
向こうの席からやってきたみっこが、藤村さんの座っている椅子の背もたれに、手をかけて言った。
「ははは。ぼくみたいなおじさんでよければね」
「そんなことないです。藤村さんって素敵な人です」
「ありがとう。嬉しいよ」
「さつきはこんな人がいいの? 文哉さんって危険よ。若い頃は絶対、女を渡り歩いていたタイプよ。あ。今もかもしれない」
「ひどいなぁ、みっこちゃんは」
「『ひとり暮らしは気楽だ』って言ってたでしょ。そうやって気楽に女の子、引き込めるものね」
「さつきちゃん。みっこちゃんの言うこと信じちゃいけないよ、濡れ衣だから」
そう言ってじゃれてくるみっこを軽くあしらい、藤村さんは笑う。でもみっこの言うこともわかる気がするな〜。わたしも第一印象はそう感じたもの。
藤村さんは40歳台の男性とは思えないくらい、感覚が若くて気やすく、わたしたちと話しも合うし、ルックスもいい。『業界人』ってのを差し引いても、素敵なおじさまだと思うわ。
「藤村さんは、ご結婚はされてないんですか?」
「お、さつきちゃん。そういう質問は、相手に気がある証拠だよ」
「そ、そんな…」
「ははは。冗談だよ。今は、別居中」
「す、すみません」
「いいよ,別に」
「あら? まだお別れしてなかったの? 文哉さんたち」
「みっこちゃん、重い話題を軽く言ってくれるなぁ。まあ、『おとなの事情』ってやつでね。いろいろあるんだよ」
「ふ〜ん。あたし子どもだから、わかんな〜い」
そう言ってみっこは、お皿の上のフルーツをひとつ、ひょいと取り上げて口に放り込むと、スタスタと向こうへ行ってしまった。
もうっ…
みっこったら、こんな中途半端に会話を打ち切っちゃって…
なんだか気まずいじゃない。
「す、すみません、みっこがあんなこと言って」
「ははは。さつきちゃんが気にすることないよ。みっこちゃんはいつもあんなだから」
「慣れてるんですね」
「彼女のわがままとか、気まぐれに? まあ、あれも愛情の裏返しと思ってるよ」
「あは。みっこって『攻めてあげたい系』だから」
「あはは。確かにそんな感じだな」
そう言って藤村さんは、愉快そうに笑った。

 翌日のコマーシャル撮影のスタートが早いので、その夜はみんな早々に部屋に引き上げた。
「今日はもう、クッタクタだよ」
川島君は部屋に戻るなりそう言い残して、ベッドにいきなり突っ伏す。
そうよね。
わたしは本物のマネージャーさんが来てからは、ずっと撮影の見学で気楽だったけど、川島君は朝から一日中重い機材を抱えて、縦横無尽に動き回っていたもんね。しかも回りはすごいプロフェッショナルな人たちばかりだし、そりゃあ体力も神経も、すり減ってしまうわよ。
 それでも川島君は、しばらくわたしとの会話につきあってくれて、そのうちソファーで居眠りしだしたものだから、わたしは無理矢理お風呂に連れていって、川島君の着替えを手伝ってやったり、髪を乾かしてあげたりする。
心の底では、昨日の夜みたいな甘いできごとを、ちょっぴり期待もしていたけど、こういうのもそれはそれで、いいかも。

 

 モルディブロケも、3日目からはテレビコマーシャルの撮影に入り、カメラマンさんや照明さん、音声さんをはじめ、スタッフの数もかなり増え、みっこもずっと忙しくなった。
昨日と同じように、早朝からヘアとメイクをして、撮影を開始。
テレビコマーシャル撮影では、映画撮影で使うような大きなシネマカメラに、カメラマンさんが何人も張りついて、操作しながら撮影する。
『監督』と呼ばれるいちばん偉いカメラマンさんが、ファインダーを覗きながらみっこに指示を出し、『セカンドカメラマン』がカメラの横に立ってピントを合わせ、『サードカメラマン』がレンズからみっこまでの距離を、メジャーで測ったりしている。
わたしはたまにメイク場所に戻ってくるみっこに、飲み物を持ってきたりする程度しか仕事がなく、それ以外はずっと撮影の見学をしていたけど、星川先生のスチル部隊は、コマーシャル撮影の合間に撮影をすることもあって、川島君はやっぱり忙しそうだった。

 そんな撮影現場の中で、森田美湖はそれこそ「水を得たさかな」のように、生き生きと動き回っていた。
『監督』の指示に従って、足先に真っ白な砂を絡めながら、ビーチをウォーキング。つま先までピンと伸びて、くいっと張られた胸が、凛々しくて爽やか。
ビーチに座ってはるか彼方のリーフを見つめ、額に手をかかげて、わずかに瞳を細めて口元を緩める。
大きな送風機から送られる風に、長い髪がしなやかに舞っていて、その流れのひとつひとつまでが、みんな計算されているみたいに美しい。
こういう姿を見ていると、「やっぱりみっこはこの世界の中にいるのが、いちばん輝いて見える」と感じてしまう。
そういうのって、いつも感じることだけど、それはとっても嬉しくて、ちょっぴり寂しい。

 コマーシャル撮影は、一日いっぱいかけて終わった。
夜はかがり火が焚かれた中庭で、全員で盛大な打ち上げ立食パーティー。
明日の撮影はモルディブの風景や小物撮りで、みっこの出番はなく、わたしたちといっしょに先に帰国する予定になっていたので、みっこはスタッフの間を回り、みんなにねぎらいの言葉をかけている。
「やっと心おきなく、ご馳走が食べられるわ」
とみっこは、撮影の終わった解放感で、今まで食べられなかった分を挽回するように、たくさん食べて飲んで、きゃっきゃとはしゃぎまわっていた。

 パーティーが終わって、みんながぼちぼちと引き上げていったのは、もう真夜中近く。
頃合いを見計らって、わたしも川島君といっしょに、自分たちの部屋へ戻った。

「夜の海を泳いでみないか?」
お風呂に入る用意をしかけたわたしに、川島君は言った。
「夜の海? でも怖くない?」
「大丈夫だよ、あまり沖に出なけりゃ。リーフまでは浅いし、波もないし。月明かりもあって、きっと綺麗だよ」
「そうね… じゃあ、ちょっとだけ」
わたしたちは部屋で水着に着替えて、ホテルを出る。海岸を歩きながら、川島君はうきうきした声で言った。
「映画とかでよくあるじゃないか。恋人同士が夜の海を泳ぐシーン。ぼくもモルディブみたいな綺麗な海で、やってみたかったんだ」
「でも映画じゃ、そのあとだいたい、サメに襲われたり、殺人鬼が出てきたりするじゃない」
「ホラー映画じゃないんだけど」
「ふふ、冗談。だけど川島君って、ロマンティストなのね」
「そうかな? まあ、別に、泳ぐのだけが目的って訳じゃないし。昨日も今日も仕事が忙しくて、さつきちゃんとはあまり話せなかっただろ。最後の夜くらい、ふたりだけでゆっくりと、モルディブの海を楽しみたいと思ってさ」
「ふふ。嬉しい」
川島君はやっぱりやさしい。ちょっと寂しかったわたしの気持ちを察してくれて、そんな風に気を遣ってくれたのね。

 モルディブの夜の海はとっても静かで、プルシャンブルーの墨を流したような、青みがかった黒。そんな水面(みなも)に、月の光が宝石のかけらのように漂っている。
薄い雲がかかった空は、どこまでも澄んでいて、星のまたたきが冴えわたる。
 わたしたちは水面の月の光をくずしながら、静かに海に浸かった。夜の海にはピンと張りつめた緊張感があって、ちょっぴりスリルがある。
ふたりでしばらく、そんな海をゆっくり泳いだ。

「少し寒いね」
かすかに語尾を震わせて、わたしは自分の肩を抱いた。
その背後から、川島君がわたしを抱きしめる。
あったかい腕。川島君は横から覗き込むようにして、わたしにキスをしてくれた。
「ふふ。なんだかしょっぱい」
川島君のキスは少しずつ情熱的になり、手がわたしの胸にのびてきて、軽く愛撫する。
「あん。ダメよ、もう」
全然『ダメ』なんかじゃないのに、どうしてそう言ってしまうんだろ?
わたしたちは波打ち際に座って、キスの続きをする。川島君はもっと大胆になってきて、わたしの水着のブラをはずす。
不思議な開放感。
外で胸を晒すなんてこと、生まれてはじめてだったから、いけないことをしているかのように、すごくドキドキしちゃう。
わたしたちは寝転びながら、波の揺らめきに愛撫され、キスを重ねた。
からだの芯に、火がついちゃったみたい。
と、そのとき、ホテルの方から人の気配がした。
「まずい」
川島君はそう言って、素早くわたしの手を引き、近くの椰子の木陰に隠れる。向こうでかすかに話し声がして、それは次第に遠ざかっていった。

「なにか熱いものでも飲む?」
椰子の木陰で、川島君はわたしの肩を抱いていたが、海から上がってからだが冷えて、少し震えていたわたしに気づき、そう言った。
「ええ」
わたしはうなずいた。
「ちょっとここで待ってて。コーヒーでも買ってくるから」
「ごめんね」
「いいよ」
そう言って、わたしの肩にタオルをかけてくれると、川島君は闇の中に紛れていった。

 どのくらい、ひとりでいただろう。
わたしは、静かな波が寄せては返す夜のなぎさに、ひとりで佇み、川島君を待っていた。
「ふう」
思わずため息をつき、空を見上げる。
モルディブから見える夜空は、切ないほど美しく、星のひとつひとつが、まるで色とりどりの磨かれた宝石のように、冷たくきらめいている。
そんな星空の下で、ひとりで夜の海辺に取り残されていると、なんだか世界中にわたしひとりしかいないみたいで、心細くなってくる。
やっぱり、川島君といっしょに行けばよかったな。
そう考えて、わたしは彼のあとを追って、ホテルへ向かうことにした。

 わたしはまわりに注意を払いながら、カナリーエンシスの林の小径を、ホテルの方へ歩いていった。
あたりは真っ暗で、道はおぼろげにしか見えず、ときおりホテルの方から漏れてくる、かすかな光だけが頼り。
川島君といるときには全然感じなかったけど、なんだかとっても心細い。
もちろん、モンスターや殺人鬼なんて出てくるわけないとは思ってみても、やっぱりこんな夜道をひとりで歩くのは、不安になってしまう。

その時、ふと、人の話し声が耳をかすめたような気がした。
さっきの人たちかもしれない。
わたしは立ち止まり、耳を澄ませた。
遠いリーフに砕ける、波の音。
かすかな風に、カナリーエンシスの葉のそよぐ音。
波が寄せて、砂が鳴く音。
聞いたこともない虫の声。
そんな音の中に、確かに男女の声みたいなものが、茂みの向こうから聴こえてくる。
なんだか聞き慣れた声。みっこみたい。
「みっこ?」
わたしは足音を忍ばせて、茂みの方に近づいた。
葉陰から垣間見えた人影は、やはり森田美湖だった。

「みっ…」
わたしは彼女に近づきかけて、足を止めた。
みっこは芝生の上で、海に向かって、わたしに背を向けるように座っていて、その隣に寄り添うみたいに、だれかがいる。
大きなシルエット。
男の人…
えっ?
藤村さん!?
ふたりのシルエットは、海に揺れる月の光の中に、ぼんやりと浮かんでいた。いったいこんな所で、ふたりっきりでなにを話してるの?
昼間はあんなにざっくばらんに接していて、まるで親子か、年の離れた兄妹みたいにしか見えなかったふたりは、今はまるで恋人同士のように、ぴったりとからだを寄せあっている。とても話しかけられるような雰囲気じゃない。

みっこは顔を上げて、藤村さんを見つめた。
藤村さんは、みっこの頬に手を添える。
『あっ…』
わたしは心の中で、思わず叫んた。
ふたりはゆっくり近づきあうと、キスをした。
ふたつのシルエットは、ひとつになる。
そのまま藤村さんはみっこを横たえ、重なり溶けあい、そうするうちに、ため息が漏れるような、みっこのよがり声が聞こえてきた気がした。
『これ以上は見ちゃいけない!』
わたしはそう感じて、音を立てないように注意しながら、素早くその場を離れた。

 急ぎ足でホテルに戻りながら、わたしは心臓が激しく脈打ち、混乱した。

『なんだか、羨ましいな〜』
と、みっこがわたしと川島君のことを言っていたのは、つい昨日のこと。
『肌を重ねあえる人がすぐ近くにいるって、最高に幸せなことよね』
とみっこは、恋人なんかいないような口ぶりだった。
なのに、その次の日の夜には、もう、あんなことをしているなんて…
みっこと藤村さんって、恋人同士だったの?
みっこからは今まで、そんな話は聞いたことがないし、今度のロケでだって、まったくそんなそぶりは、ふたりとも見せていなかった。
例えふたりが恋人同士でも、それは別に構わないんだけど、藤村さんには別居中とはいえ、奥さんがいるようだし、みっこもそれは知っている。
そういう類(たぐ)いの恋愛は、誰にも知られずに、深く、静かに進めなきゃいけないってのも、よくわかる気がする。もちろん、親友のわたしにさえ、言えないことだってあると思うし。

『わがままで生意気な小娘』のみっこには、確かに藤村さんみたいな、うんと年上の包容力のある男性がお似合いだとは思うけど、みっこがわざわざ、そんなリスキーな相手に、飛び込んだりするかしら?
もちろんそれは、わたしなんかが、首を突っ込むことじゃないとは思うけど…
ただ…
今、確かなのは…

みっこにも『肌を重ねあえる人』がいるっていう、事実。

「さつきちゃん!?」
ホテルの中庭に入ったところで、缶コーヒーを手にした川島君と鉢あわせた。彼はわたしを見てびっくりした様子。
「どうしたんだ? 海で待っててくれればいいのに」
「ごめんなさい。ちょっと…」
そう言って、わたしは口を噤んだ。
川島君にはとてもこんなこと、言えない。
ううん。
川島君だけじゃなく、他のだれにも、今わたしの見たことは、話せない気がする。
もちろん、みっこにも…
「あんまり遅いんで、心細くなっちゃって」
わたしはそう言って、ごまかした。
「ごめん。冷たいコーヒーしかなかったから、部屋のポットであたためていたんだよ」
「じゃ、部屋に戻りましょ」
「戻るって?」
「う… うん。もう遅いし… 部屋でくつろぐのもいいかなと思って」
「それもそうだな」
そう言った川島君の腕を、わたしはぎゅっと抱きしめる。
「どうしたんだい?」
「ううん。なんでもない」

…なんだか熱い。
気持ちが妙に昂(たかぶ)っていて、今は川島君とくっついていたい気分。
みっこのラブシーンなんか見ちゃったせいかな?
どんな事情があるにしても、その時が来れば、みっこもきっと話してくれるわよね。
今夜見たできごとに関しては、わたしはみっこからの告白を待つことにした。

 部屋に戻ったわたしたちは、いっしょにシャワーを浴びながら、海での続きをするように抱きあった。
わたしは川島君が好き。
大好き!
その気持ちはどんどん大きくなって、もう言葉で告げるだけじゃ、物足りない。
わたしは川島君がほしい。
川島君の心だけじゃなく、からだも、なにもかも。
わたしは川島君に、触れてほしい。
わたしの頬に、唇に、胸に。
もっともっと、触れてほしい。
川島君に触れてもらえると、とっても幸せな気持ちになってくるから。

シャワーを浴びたあと、飽きることもなく、わたしたちはベッドでお互いを求めあった。


 モルディブの空の玄関口、マーレ空港に着いたのは、翌日の午後だった。
もうすっかり慣れっこになってしまった、熱帯独特の高気圧の爽やかな風と、ほとんど影を作らない日射し。
ずいぶん長いこと、わたしたちはここにいるような気がするけど、この空港に降り立って、モルディブの景色と気候に興奮したのは、たった三日前のことなのよね。
「藤村さんの言うとおり、後半は遊ぶ暇もなかったわね」
大きなトラベルバッグを転がしながら、わたしは川島君に言った。
「しかたないさ。一応仕事で来てるんだし。でもとっても思い出に残る旅行だったよ」
「あら、川島君。『一応仕事』なんてことないわよ」
「え?」
みっこの言葉に、川島君は聞き返す。
「星川先生たち、『川島君はよく働くし、覚えも早いしセンスもいい』って、とっても褒めてたわよ」
「そんな。なんだか照れるな」
「川島君、頑張ったもんね」
わたしも彼の働きっぷりには、かなり感心していた。みっこもそう感じていたらしい。
「ありがとう森田さん。今回のロケに連れてきてもらって。ぼくのカメラマン人生を変えるような5日間だったよ」
そうお礼を言った川島君を、みっこは「お疲れさま」とねぎらい、ニッコリと微笑んだ。

 空港までは、星川先生と藤村さんが、わたしたちを見送りについてきてくれた。
撮影スタッフはもう少しここに残るらしく、帰りの飛行機はわたしたち三人と、みっこの所属しているモデル事務所の社長さん、メイクの仲澤さんにヘアのYUKOさん、スタイリストの鞠江さんだけだった。
「行きは成田から直行便で来れたけど、帰りは飛行機の都合で、インドのカルカッタ経由になったの。カルカッタを今夜遅く発(た)って、機中で一泊して、明日の朝に成田に着くわ。福岡に戻ってくるのは午後になるわね」
みっこはわたしたちにそう説明してくれた。

 空港のロビーで、藤村さんは軽く手を上げ、微笑みながら言う。
「じゃあ、みっこちゃん、ぼくらはもうロケに戻るけど、気をつけて帰るんだよ。また向こうで会おう。さつきちゃんに川島君も、元気で!」
「さよなら、文哉さん」
「みっこちゃん。現像上がったら、見せてあげるわね〜」
「楽しみにしてます、センセ!」
みっこはそう言って、藤村さんや星川先生に手を振った。

みっこ…
藤村さんとみっこの態度は、昨日までとまったく同じ。
そんなふたりを見ていると、昨夜のことは夢かまぼろしかな? なんて思ってしまう。
宵闇で暗かったし、もしかしたら、あのときみっこと藤村さんだと思っていたシルエットは、実は違う人だったのかもしれない。
わたしは昨夜の自分の記憶に、なんだか自信が持てなくなってしまった。

 飛行機の出発時間までは少し時間があったので、わたしたちはそれぞれ、空港の免税店なんかで、お土産を見たり、ラウンジで休憩したりしていた。
わたしは川島君とみっこといっしょに、ラウンジでお茶を飲んでいたが、川島君が席をはずすのを見計らっていたかのように、みっこは切り出した。
「さつき… ちょっと聞いてほしいことがあるの」
わたしはドキッとした。
もしかして、昨日の夜のこと?
「え… なに?」
「あのね。実は…」
みっこはわたしに話す決心がついていないかのように、言葉がもたつき、躊躇っている様子。
「どうしたの? いったい」
「ええ…」
「なに迷ってるの? なんだかみっこらしくないわね」
「そうなんだけど。でも… なんて言えばいいかわからなくて…」
「言ってみてよ」
「ええ…」
そんな押し問答をしているうちに川島君が戻ってきて、結局みっこの『聞いてほしいこと』は聞けずに終わってしまった。
なにか心に引っかかるものを抱えたまま、わたしたちはモルディブをあとにし、その日の夕方にはカルカッタに着いた。

 インドは爽やかだったモルディブと違って、なんだか埃っぽく、人も多くて騒々しい。
スカッと真っ青に抜けた空に、どこまでも果てしなく広がる赤っぽい街並が、『大陸」を感じさせる。
行き交うたくさんの人たちは、みんな肌が黒く、立派なヒゲをたくわえている人がたくさんいて、絵はがきなんかでよく見る光景そのもの。
 カルカッタでは、みっこのモデル事務所の社長さんから、ナンやチャパティのついた、本場のインド料理をご馳走になった。
インド料理は唐辛子や香辛料をたくさん使うので『辛い』と思っていたけど、辛さの中にもいろんな風味が混ざっていて、意外とまろやかで、食べやすい。ただ、もう何日もそんな食事が続いていたので、そろそろ日本食が恋しくなってきたかな。

 カルカッタ空港から乗り込んだ飛行機は、おもむろに滑走をはじめると、地面を蹴ってフワリと宙に浮かんだ。
ガンジス川の流れが、黒々と街の中をのたうっているのが見える。
そんなインドの夜景も次第に遠ざかっていき、上昇の圧力をからだに重く感じながら、わたしは『モルディブの旅も終わったんだな』と、妙に感傷めいた気持ちになってきた。
みんな、旅と仕事の疲れもあってか、座席に身を沈めて早々と毛布にくるまり、もう軽い寝息を立てている人もいる。
わたしも毛布を肩までかけて、眠ろうとした。
だけど、からだは疲れているのに神経は冴えてて、なかなか寝つけない。頭の中では、モルディブでの印象深かったできごとが、ぐるぐると回っている。

今回の旅では、ほんとうにいろんなことがあった。
はじめての海外旅行とカルチャーショック。
プロフェッショナルな人たちとの交流。
みっこのモデル撮影の現場。
川島君とのはじめての経験。
いっしょに泳いだ、夜の海。
そして…
藤村さんとみっこの、『肌を重ねあう』姿…

 

「さつき。寝た?」
どのくらい、そんな思いを巡らせていただろう?
機内の照明が落ちてかなり時間が経って、わたしもようやくうとうとしはじめた頃、隣の席のみっこが、小声でささやいた。
「…ううん」
わたしも小さな声で返事をする。
他におきている人はいないみたいで、薄暗い機内には、エンジンの低い音だけが、途絶えることなく、微かに響いている。
「いろいろ考えちゃって… 寝つけないの」
みっこはそう言うと、わたしの方に寝返りをうった。
「なに考えているの?」
「ん…」

長い沈黙のあと、みっこはささやいた。
「…川島君は、眠ってる?」
「うん」
わたしはいちばん通路側にいる川島君が、寝息をたてているのを確認して、答えた。

「…」
さらにしばらく沈黙して、みっこはいっそう秘めやかな声で、告白した。
「あたし… 好きな人が、できちゃったみたい」
「えっ! ほんとに?」
興奮を抑えながら、わたしは聞き返す。やっぱり昨夜の光景は、夢や人違いじゃなかったんだ。
みっこはまた、少し考えるように黙ったあと、ぽつりぽつりと話しはじめた。

「だけど、あたし… その人のこと… 好きにならない方が、いいの」
「どうして?」
「う… ん。だれからも、祝福される恋じゃない、から… かな? …多分」
「それって… 不倫とか?」
「…ごめん。今は… 言えない」
「き…」

『昨日の夜,藤村さんと浜辺で抱きあっていたでしょ?』
そう喉まで出かかった言葉を、わたしは呑み込んで言った。
「気にしないで。大丈夫よ… 人を好きになる気持ちを、祝福できないってこと、あるわけないわよ。わたしは応援してるから。みっこのこと」
「ダメ… 応援なんてしちゃ」
「え?」
みっこは密やかな声で、ささやくというより、自分に言い聞かせるかのように、つぶやいた。
「そんなことされたら、あたし… なにもかも壊すようなこと、しちゃいそう」
みっこはそう言うと、瞳を閉じて、毛布を顔までまくり上げた。
仄かなダウンライトが頬に当たり、みっこの気持ちの陰影を映し出すように、鈍く照り返す。
みっこはそのまま、しばらく沈黙していたが、おもむろに顔をあげると、かすかに微笑みを浮かべてささやく。
「ごめんね、さつき。つまんない話、しちゃって」
「ううん。わたしでよかったらなんでも話してよ。それでみっこの気がすむのなら」
「ありがと。おかげで、少しすっきりしたかも」
「だったらわたしも、嬉しいよ」
わたしがそう言うのを聞いて、みっこは寂しく微笑んだ。

 旅の終わりはいつでも淋しくて、なんだかもの哀しくて、つい、センチメンタルな気分になってしまうもの。
だからこの夜のみっこも、きっとそうだったんだと思う。

 

 こうしてわたしたちのモルディブ・ロケ旅行は終わった。
そしてこの旅が、ある意味でわたしたちの『ターニング・ポイント』になったということを、わたしはずっとあとになって、気がついた。

END

1st Sep. 2011

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